て来るのも異様に感じられた。かれは自分の初心《しょしん》なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落《しゃれ》を言ったり、こうしたところには通人だというふうを見せたりしたが、二階回しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた。かれはただ酒を飲んだ。
 厠《かわや》は階段《はしご》を下りたところにあった。やはり石菖《せきしょう》の鉢《はち》が置いてあったり、釣《つ》り荵《しのぶ》が掛けてあったりした。硝子《がらす》の箱の中に五分心の洋燈《らんぷ》が明るくついて、鼻緒《はなお》の赤い草履《ぞうり》がぬれているのではないがなんとなくしめっていた。便所には大きなりっぱな青い模様の出た瀬戸焼きの便器が据えてある。アルボースの臭《におい》に交《まじ》って臭い臭気《しゅうき》が鼻と目とをうった。
 女の室は六畳で、裏二階の奥にある。古い箪笥《たんす》が置いてあった。長火鉢の落としはブリキで、近在でできたやすい鉄瓶がかかっている。そばに一冊女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に発行したものであった。「こんなものを読むのかえ、感心だねえ」と言うと、女はにッと笑ってみせた。その笑顔を美しいと清三は思った。室の裏は物干しになっていて、そこには月がやや傾きかげんとなってさしていた。隣では太鼓と三絃《しゃみせん》の音がにぎやかに聞こえた。

       三十二

 翌日は昼過ぎまでいた。出る時、女が送って出て、「ぜひ近いうちにね、きっとですよ」と私語《ささや》くように言った。昨夜、床の中で聞いた不幸《ふしあわせ》な女の話が流るるように胸にみなぎった。
 渡《わた》しをわたって栗橋に出て昨日の路《みち》を帰るのはなんだか不安なような気がした。土手で知ってる人に会わんものでもない。行田に行ったというものが方角違いの方面を歩いていては人に怪しまれる。で、かれは昨夜聞いておいた鳥喰《とりはみ》のほうの路を選んで歩き出した。初会《しょかい》にも似合わず、女はしんみりとした調子で、その父母の古河《こが》の少し手前の在《ざい》にいることを打ち明けて語った。その在郷に行くにはやはり鳥喰を通って行くのだそうだ。鳥喰の河岸《かし》には上州《じょうしゅう》の本郷に渡る渡良瀬川《わたらせがわ》のわたし場があって、それから大高島まで二里、栗橋に出て行くよりもかえって近いかもしれなかった
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