藪の陰からやさしい唄がかすかに聞こえる。
加須《かぞ》街道方面とはまったく違った感じをかれに与えた。むこうはしんとしている。人気《ひとけ》にとぼしい。娘などもあまり通らない。がいして活気にとぼしいが、こちらはどの家にもこの家にも糸を繰る音と機を織る音とがひっきりなしに聞こえる。村から離れて、田圃《たんぼ》の中に、飲食店が一軒あって夕方など通ると、若い者が二三人きっと酒を飲んでいる。亭主はだらしないふうで、それを相手にむだ話をしている。嚊《かかあ》は汚ない鼻たらしの子供を叱っている。
発戸《ほっと》の右に下村君《したむらぎみ》、堤《つつみ》、名村《なむら》などという小字《こあざ》があった、藁葺屋根《わらぶきやね》が晨《あした》の星のように散らばっているが、ここでは利根川は少し北にかたよって流れているので、土手に行くまでにかなりある。土手にはやはり発戸|河岸《がし》のようにところどころに赤松が生えていた。しの竹も茂っていた。朝露のしとどに置いた草原の中に薊《あざみ》やら撫子《なでしこ》やらが咲いた。
土手の上をのんきそうに散歩しているかれの姿をあたりの人々はつねに見た。松原の中にはいって、草をしいて、喪心《そうしん》した人のように、前に白帆のしずかに動いて行くのを見ていることもある。「学校の先生さん、いやに蒼い顔しているだア。女さア欲しくなったんだんべい」と土手下の元気な婆《ばばあ》が言った。機織り女の中にも、清三の男ぶりのいいのに大騒ぎをして、その通るのを待ち受けて出て見るものもある。下村君《したむらぎみ》の村落にはいろうとするところに、大和障子《やまとしょうじ》を半分あけて、せっせと終日機を織っている女がある。丸顔の、眼のぱっちりした、眉《まゆ》の切れのいい十八九の娘であった。清三はわざわざ回り道していつもそこを通った。見かえる清三の顔を娘も見かえした。
ある時こういうことがあった。土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうから機《はた》織り女が三人ほどやって来た。清三はなんの気もなしに近寄って行くと、女どもはげたげた笑っている。一人の女が他の一人を突つくと、一人はまた他の一人を突っついた。清三は不思議なことをしていると思ったばかりで、同じ調子で、ステッキを振りながら歩いて行った。坂には両側からしげった楢《なら》の若葉が美しく夕日に光ってチラチラした
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