。庭の金木犀《きんもくせい》は風につれてなつかしい匂いを古びた寺の室《へや》に送る。参詣者は朝からやってきて、駒下駄の音がカラコロと長い鋪石《しきいし》道に聞こえた。墓に詣《もう》ずる人々は、まず本堂に上がって如来様を拝み、庫裡に回って、そこに出してある火鉢で線香に火をつけ、草の茂った井戸から水を汲んで、手桶を下げて墓へ行った。寺では二三日前から日傭《ひよう》取りを入れて掃除をしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものように樒《しきみ》の枯葉や犬の糞《くそ》などが散らかっていなかった。参詣するもののうちには、町の豪家の美しい少女もいれば、島田に結った白粉のなかばはげた田舎娘もあった。清三はかみさんからもらった萩の餅に腹をふくらし、涼しい風に吹かれながら午睡《ひるね》をした。夢《ゆめ》うつつの中にも鐘の音、駒下駄《こまげた》の音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。
結願《けちがん》の日から雨がしとしとと降った。さびしい今年の秋が来た。
かれのこのごろの日記には、こんなことが書いてある。
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十月一日。
去月《きょげつ》二十八日より不着《ふちゃく》の新聞今日一度に来る。夜、善綱氏《ぜんこうし》(小僧)に算術教ふ。エノックアーデン二十|頁《ページ》のところまで進む。このごろ日脚《ひあし》西に入り易く、四時過ぎに学校を出《い》で、五時半に羽生に着けば日まったく暮る。夜、九時、湯に行く。秋の夜の御堂《みどう》に友の涙《なみだ》冷《ひや》やかなり。
二日。晴。
馴《な》れし木犀《もくせい》の香やうやく衰へ、裏の栗林に百舌鳥《もず》なきしきる。今日より九時始業、米ずしより夜油を買ふ。
三日。
モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑《おばた》に手紙出す、夕波の絵かきそへて。
四日。晴。
久しく晴れたる空は夜に入りて雨となりぬ。裏の林に、秋雨《あきさめ》の木《こ》の葉うつ音しずか。故郷の夢見る。
五日。土曜日。
雨をつきて行田に帰る。
六日。
一日を楽しき家庭に暮らす。小畑と小島に手紙出す。夜、細雨《さいう》静かなり。
七日。
朝早く行く。稲、黄いろく色づき、野の朝の雨|斜《ななめ》なり。夜は学校にとまる。
八日。
雨はげしく井戸端の柳の糸乱る。今宵も学校にとまる。
九日。
早く帰る。秋雨やうやく晴れて、夕方の雲風に動くこと早く夕日|金色
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