「名誉をおって、都会の塵《ちり》にまみれたって、しかたがありませんな……どんなに得意になったって、死が一度来れば、人々から一滴の涙をそそがれるばかりじゃありませんか。死んでからいくら涙をそそがれたってしかたがない!」
主僧の眉はあがっていた。
その夜は遅くまで、清三はいろいろなことを考えた。「名誉」「得意の境遇」それをかれは眼の前に仰いでいる。若い心はただそれのみにあこがれている。けれど今宵《こよい》はなんだかその希望と野心の上に一つの新しい解決を得たように思われる。かれは綴《とじ》の切れた藤村の「若菜集」を出して読《よ》みふけった。
本堂には如来様《にょらいさま》が寂然《じゃくねん》としていた。
十五
裏の林の中に葦《よし》の生《は》えた湿地《しっち》があって、もと池《いけ》であった水の名残りが黒く錆《さ》びて光っている。六月の末には、剖葦《よしきり》がどこからともなくそこへ来て鳴いた。
寺では慰みに蚕《かいこ》を飼《か》った。庫裡《くり》の八畳の一間は棚や、筵《むしろ》でいっぱいになって、温度を計るための寒暖計が柱にかけられてあった。かみさんが白い手拭いをかぶって、朝に夕に裏の畑に桑を摘みに行く。雨の降る日には、その晴れ間を待って和尚《おしょう》さんもいっしょになって桑摘みの手伝いをしてやる。ぬれた緑の葉は勝手の広い板の間に山のように積まれる。それを小僧が一枚々々拭いていると、和尚さんはそばで桑切り庖丁で丹念に細く刻《きざ》む。
蚕の上簇《あが》りかけるころになると、町はにわかに活気を帯びてくる。平生は火の消えたように静かな裏通りにも、繭《まゆ》買い入れ所などというヒラヒラした紙が張られて、近在から売りに来る人々が多く集まった。頬鬚《ほおひげ》の生えた角帯の仲買いの四十男が秤《はかり》ではかって、それから筵《むしろ》へと、その白い美しい繭をあけた。相場は日ごとに変わった。銅貨や銀貨をじゃらじゃらと音させて、景気よく金を払ってやった。料理店では三味線の音が昼から聞こえた。
ある日曜日であった。郁治が土曜日の晩から来て泊まっていた。「行田文学」の初号ができて持ってきたので、昨夜から文学の話が盛んにでた。ところが、ちょうど十時過ぎ、山門《さんもん》の鋪石道《しきいしみち》にガラガラと車の音がした。ついぞ今まで車のはいって来たことなどは
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