何うかなると、熊に山路で襲はれることなどもある。鹿の肉は澤山にあるが、これはしかしさう大して旨くない。猿は山の人は平氣で食ふ。ひえる體などには非常に暖まつて好いと言ふことである。しかし肉はさう旨い方ではない。兎も澤山にゐる。
 それに栗山蕎麥が有名である。私はあちこちの蕎麥を食つて見たが、この山中の燒畑で穫れたものほど旨く思つたことはない。かをりが非常に高い。その他、栗山の川俣で食つた栗山餠といふうるち[#「うるち」に傍点]の玄米でつくつた餠が旨かつた。造酒家ばかりが知つてゐるひねり餠といふのと同じものだ。

    四

 寺坊の多くは、夏は贅澤な避暑の人達の借りる所となつた。ある寺の二階の欄干からは、若々しい孃さん達の笑聲が聞え、ある寺の一間からは玲瓏としたなつかしい琴の音などが洩れた。新婚の若夫婦、侍女をつれたなにがし侯爵夫人、腕を組んで快活に歩いて行く外國人夫妻、町も山もすべて賑やかな派手な色彩を着けて來た。其頃は夏の日の光線にかゞやいた碧い空が、山と谷との上を蔽うて、電車が明るい快い姿を溪畔から山の町の方へと駛《はし》らせて行つた。
 町は夜は賑やかだ。遊覽の客が浴衣がけでぞろぞろと通る。何處の旅舍にも客がぎつしり詰つてゐる。三味線の音が湧くやうに聞える、「日光ちよいと出りや朱塗の御橋、向河原や含滿《がんまん》の……」などと唄つてゐる聲がする。いかにも世界に聞えた遊覽の町だといふ氣がせずには居られない。殊に月のある夜は好い。神橋の上から見ると、大谷の末流は、すつかり金屬か何かのやうに美しくキラキラと輝きわたつて見えた。
 電車が馬返まで通じたので、大平《おほたひら》まで上つて行く嶮しい舊道は、今は都會の人達に取つて丁度好い山路になつた。かれ等は袒《はだぬぎ》になつたり、尻端折りをしたりして面白がつて登る。女も「はア」などと呼吸をつきつき登つて行く。女學生の團體では、「まだ中々でせうかね」などと言つて立留つて喘いでゐる。中の茶屋から見た谷は頗る好い、やがて不動坂を上り盡すと、大平のさびしい林が來る。山毛欅《ぶな》や榛《はん》や白樺の幹の林立してゐるさまも見事である。つゞいて華嚴の休茶屋が來る。すさまじい瀑は※[#「金+堂」、第4水準2−91−34]然《だうぜん》として深い谷に向つて瀉下してゐる。
 南岸橋の袂に繋いである白いボオト、鮮かな碧い湖はやがて前に展けて、赤い白い競漕の旗の水面に靡いてゐるのも美しければ、三角の帆を張つたボオトが滑らかに湖上に動いて行くのも繪のやうである。
 湖に面した旅舍は、二三年前の火事に燒けて、今や欄干からすぐ湖水を見ることは出來なくなつたが、それでも猶ほ旅客の眼を樂ませるには十分だ。
 湖を渡つて歌ヶ濱に行く。其處の觀音堂にある勝道上人手刻の觀音像は今は國寶になつてゐるが、頗る見事である。私は多く佛像を見たがあんな威嚴を持つた觀音像はついぞ一度も見たことはなかつた。
 湖水の朝は殊に好かつた。水の色が好い。嵐氣の深いのが好い。歌ヶ濱から、上野島《かうづけしま》から、乃至は合潟《あせかた》の岸から見た男體は、殊にその形の端麗なので聞えてゐた。で、舟で菖蒲ヶ濱へと渡る。龍頭《りうづ》の瀑、つづいてさびしい戰場ヶ原、そこには草花が多く、夏は一面美しい毛氈を敷いたやうに見えた。そして其奧にはモウパッサンの『Inn』を思はせるやうな、冬は全く深雪に埋もれて了ふ湯本の温泉場があるのであつた。
 日光の山の町の灯も私にはなつかしかつた。料理屋の軒近くまで夜霧が深くかかつて來て、電燈の光が光鋩もなくぼんやりと濡れてかがやいてゐるのを前にして、東京生れの妓《こ》が靜かに爪彈か何かで三味線を彈いてゐるさまなどがをりをり繪になつて私の眼に映つて見えた。

    五

 日光火山群の前衞を成したやうな都賀山《つがやま》、安蘇山《あそやま》の山地も面白い。山はさう大きなものではないけれど、細い狹い谷が幾條もその間に穿たれてあつて、遠くから望んで見ても非常に襞や皺が多い。そしてその平野に落ちやうとする處には、到る處にすぐれた眺望を持つた山巒《さんらん》が聳えてゐた。
 この山の起伏は關東平野の到るところから見えた。淺草の十二階の上から、信越線の汽車の中から、北埼玉の野から、利根川の土手の上から、更に最も近くはつきりと見えたるのは、東北幹線の小山驛附近からであつた。しかしそこから見えるのは東の一面で、更に全面を見やうとするには、昔の奧羽街道、それもぐつと昔の萬葉時代に旅客の通つた驛遞の道路の線をたどつて見るに越したことはなかつた、其時分の驛遞路は、前橋附近から伊勢崎、境に出て、太田から往昔《むかし》の佐野の渡しのあつた渡良瀬川を渡つて、安蘇山、都賀山の裾を掠めて、そして下野《しもつけ》の室《むろ》の八島《やしま》の
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