方へと出て行つたのであつた。僧道鏡の貶せられた藥師寺の趾やその墓の今日猶その附近に殘つてゐるのを見ても、上野《かうづけ》の國府から下野《しもつけ》の國府へとの路の榮えたさまが想像された。萬葉集にある安蘇山の歌は、皆その時分の旅客がこの山巒に添つて旅行してゐる形をよくあらはしてゐるのである。ことに、一番近く平野に落ちてゐる三|毳山《かもやま》の形が面白い。それは東武線の汽車の館林、佐野間を通る時によく見るが、それが絶海の孤島のやうな筑波の翠微と相對して、いかにもひろ/″\とした眺めを成してゐる。そして佐野から出た路は、この山と岩舟、唐澤の山巒の間を通つてずつと下野の國府へと出て行つてゐた。
下野國志に、室の八島の夕暮の炊煙に包まれたさまを描いた※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪が一枚入つてあるが、それを見ると、昔の旅行のさまが歴々《あり/\》と私の眼の前に浮んで見えるやうな氣がした。佐野附近の渡良瀬川《わたらせがは》の渡津《としん》もその時分はかなりに榮えたらしく思はれた。
この都賀山、安蘇山は、鹿沼《かぬま》からも入つて行ければ、栃木からも入つて行けた。佐野から入つて行く路は、秋山川の谷を深く溯つて行くやうな位置で、石灰が出る葛生町《くづうまち》があつたり、麻の緑葉の人肩を沒するやうな山畠があつたりした。田沼の近くにある唐澤山は秀郷の古城趾のあつたところで、山は淺いが、眺望は非常に好い。しかし、この奧一里のところに、これよりももつと眺望のすぐれてゐる琴平山がある。琴平の流行祠があつたが今はすたれた。岩舟には天台の古刹があつて、香煙が盛である。
出流《いづる》の觀音の窟《いはや》のある谷は狹い小さな峽谷だが、山巒が深く入り込んでゐるので、嵐氣が深い。窟はちよつと奇觀だ。しかし、これよりも秋山川の谷を溯つて、山傳ひに足尾の方に出て行く間に、小さくはあるがかくれた山水が二三あつた。
日光の大谷の谷に添つた大日堂の少し先からこの都賀山に入つて、小來川《こくるがは》に出て、古峰《こぶ》ヶ原、尾鑿山《をさくさん》などを探つて見るのも面白い旅の一つだ。小來川から出流《いづる》の方へ出て來るには、草山を越えたり、溪を渉つたりして、かなりに難儀な迷ひ易い路を一日歩かなければならなかつた。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「山水小記」富田文陽堂
1918(大正7)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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