の髣髴を認めることの出來る三界瀑、大眞名子の千鳥返しといふ難所のあるあたりの眺望、太郎山の御花畑、金田峠の上から見た連山の起伏などが深く私に印象されて殘つてゐた。男體《なんたい》へは私は表からも裏からも登つた。裏から登つた時は、雨の土砂降りに降る日で、山巓まで行つたには行つたが、深い雲霧で、一間先をも辨ずることが出來ず、禪頂小屋に蹲踞《つくな》んでゐて見ても何うすることも出來ないほど寒いので、急いで下りて來て、志津の小屋で一夜を過した。
 この裏山《うらやま》禪頂《ぜんちやう》は、昔は僧侶がよく行をやつたところで、山中到る處に今でも猶その禪頂小屋の殘つてゐるのを見る。私の知つてるだけでも、唐澤、女峰、志津などがある。風雨と年月とに晒されて、ひどくなつてはゐるが、それでもそこで過した一夜は平凡でなかつた。その附近の熊笹の中には屹度清い水が湧き出してゐて、そこで米を炊ぐことが出來た。秋は鹿の聲が月光の搖曳した深い林の中に聞えた。
 谷々から滴り落ちる水が、或は潺々《せん/\》とした小さい瀬を成し、或は人に知られない無名の瀑布を懸け、時には激し時には淀んで、段々世間に流れ落ちて行く形が面白い。その清い流れはをりをり山百合の白い花や八汐の紅い色を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》した。
 富士見越の峠のところに小屋があつて、そこが物品交換の場所になつてゐたが、今は何うしたか。つまり日光の方から炭とか米とかの日用品を其處に持つて行つて置くと、栗山の方から下駄や細工物の材料を持つて來て、そして人を須《もち》ひずに物品だけで交換して行くのであつた。山の中にはまださうした原始の状態が殘つてゐた。
 女峰の劍の峰は、男體の頂上よりもぐつとすぐれた眺望を持つてゐる。そこで見た男體の雄姿はもとより言ふを待たない、波濤の如く起伏した連山に雲の湧き立つたさまは、日本アルプスの深い山の中でも澤山はないやうな大きな眺望であつた。

    三

 日光の山の中には種々な自然生の食物がまだ澤山に殘つてゐた。山牛蒡[#「牛蒡」は底本では「午蒡」]、山|獨活《うど》、山人參、山|蕗《ふき》、ことに自然薯が旨かつた。秋の十月の末から初冬の頃になると、山の人達は、それを掘つたのを背負籠に負つて、そして町の方へと賣りに來た。寺の坊などではそれを待ちつけて買つた。髮を棕櫚箒のやうにした山の上《かみ》さんが、「そんなことを言つたつて、中々掘るが難儀だでな……」などと言つて、白い衣を着た莞爾《にこ/\》した老僧と相對してゐるさまは到る處で見懸けた。
 たら[#「たら」に傍点]の芽はさうした食物の中で殊に美味であるが、それも山深く入ればかなりにある。山蕗は夏の盛りに行つても、もつと遲く秋になつてからでも、柔かな旨いヤツ[#「ヤツ」に傍点]が食はれる。それと言ふのも、六月に石楠花《しやくなげ》が咲き、七月に躑躅《つつじ》が咲くといふやうな深い山の中から採つて來るからである。漆の芽なども旨い。
 蕨は十二三年前までは寂光へ行く路、霧降へ行く路、裏見へ行く路などでも澤山に採れたが、ぢき手に持てなくなる位採れたが、今は開けて、もうさう手近なところにはなくなつた。その時分になると、矢張寺坊にゐる山に精しい婆さんなどが採りに行つてそして賣りに來た。太い見事な、淺い山などでは見ることの出來ないやうな蕨である。さういふ婆さんは、大抵寂光から裏見へ行く山の中、裏見から慈觀瀑《じくわんのたき》の上一里ほどの處へ出かけて行つてそして採つて來るのであつた。霧降瀑《きりふりのたき》の奧の方でも採れた。
 鳥はつぐみ[#「つぐみ」に傍点]が早くから食へた。鳥小屋が山の處々にかけてあつて、そこに町の人達はよく一日遊びに出かけたりした。運が好いと隨分澤山に獲れるといふことであつた。その他、鳥の種類はかなりに多い。雉子、山鳥なども町の料理屋の膳にいつも上つた。
 茸類では、松茸は早松茸《さまつだけ》だけである。初茸も山にはない。町に賣りに來るのは、皆もつと下の端山や野山で採れるのを持つて來るのである。千茸《ちたけ》は七月頃に旨い。八月すぎると、まひ茸[#「まひ茸」に傍点]なども出る。栗もだし[#「栗もだし」に傍点]、楢もだし[#「楢もだし」に傍点]なども澤山に採れる。椎茸も出る。
 鮎はない。此處で食ふ鮎は、皆|阿久津《あくつ》附近の鬼怒川から持つて來るのである。その代り、岩魚《いはな》がゐる。かじかがゐる。赤腹《あかつぱら》がある。中禪寺湖では大きな驚くやうな鰻が獲れた。鱒は自然生ではないが、秋はかなりに旨い。
 山に住んでゐる獸は、日光の町ではさう多く口にすることは出來ないが、裏山から鬼怒川の谷の方へ行くと、あらゆるものがゐる。熊もゐれば山猪《しゝ》もゐる。夏でも
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング