消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』
呉葉は問うた。
『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』
『まア、さやうでございますか?』
『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』
さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』
『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』
『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』
『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』
『本當でございます』
『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』
『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』
『そんな話だねえ――』
『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』
『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか……。』
『そんなことを申してをりますねえ! 世間の人は?』
呉葉はこんなことを言つて笑つた。此頃でも殿と窕子との間はまださう打解けたやうには見えなかつたけれども、それでもさうしたいろいろな事件から離れたその二つの心が再び近寄つて行くやうになることを呉葉は願はずにはゐられなかつた。かの女はつとめて窕子を慰めるやうにした。
二一
呉葉の國のもので、幼い頃から此處に來て仕へてゐた藤といふのが、今度縁談がきまつて、里から母が迎へに來たので、そのまゝ暇を取つて歸つて行くことになつた。
呉葉は何年にも故郷に歸つたことはなかつたが、むしろ一生その身は此處につとめるつもりでゐたが、母に迎へられて國に歸つて行く藤を見ると、流石にそれを羨まずにはゐられないやうな氣がした。かの女の眼の前には何年にも目にしたことのない川に添つた、雲の白く靡いてゐる故郷の藁屋のさまがはつきりとあらはれて見えた。
そこでは今時分はもはや麥は刈られて、暑い日影が山ぞひ路の卯の花の白い叢を照してゐるだらう。藁家の屋根のぐしの上には葉の大きい蛇よけの草などが一杯に茂つてゐるだらう。だらだらとそこから川へ下りて行つたところには、葭や眞菰が青々としげつて、その向うに鰻を獲る舟が餌を置くためにあちこちと徐かに動いて行つてゐるだらう。水が葭の根元のところにさゝやかな音を立てゝ紋を成して流れて行つてゐるだらう。夜は眞闇で、あたりに何もないやうに見えるけれども、村の男や娘達は却つてそれを好いことにして、手を組み合はせたり肩を竝べたりしてゐるだらう。靜かな川ぞひの里。螢の里。夏になつてから名高い瓜の出來る里。あの畠から取つて來た熟して半ば赤くなつた瓜は、何んなにうまい漿をかれ等の口に漲らすだらう。それは都と比べては、派手な賑かな樂みはないだらう。くらべ馬の日の棧敷の賑はひ、祭のかへさの賑はひ、あの引出しの車の裾の美事さ、さういふものはそれは田舍にはない。しかし都の人達の内部のわづらはしさ! 悲しさ! つらさ! ほこりの多さ! あのやうに美しく派手につくつて居りながら片時も休む時のない心のみだれ! それを思ふと、田舍がこひしい。水のほとりの里がこひしい。弟にはもはや嫁が出來て、それが髮に赤い布をかけて、弟と一緒に田に畠に鋤や鎌を持つて出かけて行つてゐるさうだが、さういふあたりのさまがなつかしい。父も母も達者ではあるが、もう老いて、かなりに白髮も多くなつたさうだが、その白髮がなつかしい。几帳だの、かさね衣だの、廊下だの、蒔繪の文箱だの、花の枝につけた消息だの、口で言ふべきところを懷紙に書いてそれを厨子の上に置いたりする生活だの――さういふものに曾ては深くあこがれてそしてその野山を見捨てゝはるばる出かけて來たのであるけれども、今では却つてそこに戻つて行く藤母子がたまらなく羨しいのであつた。(やつぱり田舍に生れたものは田舍でくらすが好い。その方が氣安い。苦勞もない。よしまた苦勞があつたにしても、都の人達のやうにさういふ風にわるくこだはらない。その日その日をわびしく見詰め合つて暮すやうなことはない……)こんな風に思ふにつけても、都の生活が、上は大内裏の局達の生活から、下は羅生門あたりに住んでゐる乞食や盜人のさままで歴々とそこに浮んで來るのだつた。
藤はしかし田舍に戻ることを好んではゐなかつた。また田舍の土くれ男を夫に持つことについても餘り進んではゐなかつた。
廊下の暗いところで涙などを流してゐた。
『何を泣いてゐるの……。京などいつまでゐたとてしようがないではないか。それよりも田舍の方が何んなに好いか?』
『でも……』
『でも、お前は京の方が好いと言ふの?』
『だつて折角京のことがわかつてまゐつたのですもの……』
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
藤はそれでも頭を振ることを止めないのであつた。藤は何んな生活でも、田舍の草深い中にくらしてゐるより京の方が好いと言ふのであつた。御門や后の宮の御車を見ることか出來るだけでも好いといふのであつた。かの女は別れて行くことを悲しんだ。
思ひのまゝにならない世の中だといふことを呉葉はつくづく感じた。何處に行つたつて思ひ通りに幸福に滿ち足りて暮してゐる人達はない。そこにも此處にも悶えがある。不滿がある。悲哀がある。御門をはじめとして、后の宮にも、局にゐる人達にも、また大きな邸を構へて前を追うて暮してゐる人達にも、やはり滿ち足らぬ悶えがある。呉葉は藤の心持の中にその身の悲哀が深く雜り合つてゐることを思はずにはゐられなかつた。曾て窕子が『それがお前、この人間の世の中といふものだよ』と言つた言葉が染々呉葉にも思ひ出された。
『それでは――』
『健かに』
かう互に言ふ言葉がやがて藤と呉葉との間に取交された。
藤は母親に寄添つて、止むを得ずに、窕子にも家の人々にもわかれを告げて出て行つた。
窕子もそれを廊下のところまで見送つて行つたが、やがてそこからもどつて來た呉葉に向つて、『うらやましいね、田舍の靜かなところに行けるのは?』ふと呉葉の眼に涙が一杯にたまつてゐるのに目をとめて、『お前も、田舍に歸りたくなつたのね?』
『…………』呉葉の眼からは涙がほろほろとこぼれ落ちた。
『お前の心持はよくわかるよ……。でも、私を捨てゝ行つてお呉れでない、ね、ね……』と窕子はその顏を覗くやうにした。野から山へと青嵐をわけて歩いて行く藤母子の姿が今しもはつきりと二人の眼に映つて見えた。
『本當にお前は私を捨てないでお呉れ……』
『…………』
『ね、ね』
窕子は重ねて言つて、『いつか、その中一緒に觀音さまにお詣りする時が來るだらうから、その時はお前の田舍にも行つて見たいと思つてゐるのだから……』
呉葉は涙を歛めて、
『勿體ない……』
『お前にゐなくなられたら、それこそこの身は何うしたら好いかわからなくなるのだから。それは母者はよう見舞うて呉れるけれども、本當に私の心を知つてゐて呉れるのはお前ばかりだからね。……田舍も戀ひしいだらうけども……』
『勿體ない……』
呉葉は別な意味でまた涙組ましい心持になつて行つた。主從と名には呼ばれてゐるけれども、同胞にも劣らないやうな窕子の平生のいつくしみがそこにありありとくり返されて來た。
『その中にはお前にだつて好いこともあるだらうし……、あのやうな殿でも、今に一の人にならぬとも限らぬし……』
呉葉は言ひかけた窕子を遮つて、
『もう、もう、そのやうなことは仰有らずにゐて下さいまし……。この身は初めからさう思つて此處に參つて居るのでございますから……。この身は一生お傍は離れないつもりで居りますほどに……。ただ藤の母親に逢つて、あちらのことをきいたりしたので、田舍がこひしうなつたのですけれども、それは深く思うてゐるわけでもござりませぬほどに……』
『ほんに、さうしてお呉れ……。お前なしでは、とてもこの世の中の心の荒波はわたつて行けないのだから。……とても……とても……』
窕子も袖を面にあてた。
『本當に心安うおぼせ――私のやうなものが今になつて田舍にかへつて行つたとて何になりますものか。田舍のものがもはや相手にしては呉れませぬほどに――この身はいつまでもお傍に――』呉葉もいろいろなことを思ひ出したといふやうにして泣いた。
二二
長雨が降り續いて、町の通りも深い泥濘になり、網代車や絲毛車の大きな輪が、牛かひや牛やそこらを通る人だちに泥を飛ばせた。通りは跣足でなければ歩けないので、めつきりと人通りが減つた。大比叡の裾が少し明るくなつたと思つたのも、それもほんの纔の間で、また雲が蔽ひかゝつて、しとしとと雨が降り頻つた。
窕子は物忌を違へるために、里の家の方へと出かけて行つたが、その雨のために容易に戻つて來ることが出來なくなつた。
『もはや雨師の杜に勅使が立つさうだ――』
『ほんに、かう長雨がつゞいては、洪水が出て困る……』
さうした話がそこでも此處でもくり返された。何でも山崎の向うの方は、水と岸とが同じぐらゐの高さになつて、今にも土手が切れさうなので、舟の往來すらも禁められてあるなどといふ噂が傳へられた。折角植ゑた稻が全く水の中に浸つてしまつたところなども到るところにあるといふことであつた。
不圖窕子はある事を耳にした。
『それはほんと?』
『ほんたうでございます』
何處からか聞いて來た呉葉は、かう言つてあとを殘した。
『でも登子の君がそのやうなところにゐるといふのは?』
『ですから、この身も何うかと思つて始めは本當にしなかつたのでございますが……やつぱりまことでございます。何でも、一時、身を忍ばせてゐらるゝのださうでございます……』
『でも、西の邸と言へば、すぐそこぢやないか。それに、あそこは大殿がおかくれになつてから、草が茫々と生えたまゝにしてあるといふぢやないか。それなのに……』
兼家や中宮の妹で、御門にさへ思はれてゐる登子の君が、そのやうな廢屋に來てゐようとは窕子には容易に信じられなかつた。
『でも本當でございます』
『お前、誰に聞いた?』
『さつき、下のものが何かこそこそと話しては、大事でもあるやうに致してをりますから、何うしたのかと思つてきいたのでございます。さうしたら、末の君だつて申すぢやございませんか。それも内所にして置かなければいけないので……それで――』
呉葉は聲を落した。
つい今から一月ほど前、式部卿の宮の突然の死は、京の人達
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング