が、歌が流るゝやうに出て行つてゐるのであつた。いつもなら、何んなことでも呉葉に見せるのが習慣であるのに、今日はそれすら出來なかつた。自分ひとりでこの思ひを深く包んで、兼家が顏を見せたならば、そのまゝ何うにもごまかすことが出來ないやうに、眞劔にそれを打ちつけて、いやでも應でもその女を知らなければならないと思つた。窕子は下唇を何遍も何遍もかたく噛んだ。
 ところが生憎に秋雨が降つたり、大内裏に宮の用事があつたりして、兼家は容易にそこにその姿を見せなかつた。窕子は憂欝な顏をして、いらいらしながら暮した。
『何うかなさりましたか?』
 呉葉は心配した。
 ところが、三日目の午後にそんなことが家に待つてゐようなどとは夢にも知らずに、莞爾しながら機嫌よく兼家がやつて來ると、いきなり、
『あなた、これは?』
 と言つて、嫉妬と恚りとで半ばもみくちやにされた、緑色の文をそこに出した。
『何だえ?』
『おわかりでせう! 覺えがあるでせう?』
 それの何であるかを知つた兼家は急に狼狽へて、
『何うしたのだ……』
『何うしたもないではござりませぬか。かういふ女子が何處にゐるのでございます……』
『それはいたづらに書いたのだよ。そんな女はゐやしないのだよ』
『うそをおつしやいませ、ちやんとやるばかりになつてゐたのでございますもの……』
『何處にあつた?』
 かう言つた時には、兼家の顏にはいくらか笑ひが上つて來てゐた。
『それ、御覽なさい……』
『本當に何處にあつたのだ』兼家はその女にやる文を何處かに亡して了つたので、その時あちこちをさがしてもないので、それに途にでも落して了つたのだくらゐに思つてゐたのであつた。
『さうか、此處の文箱にあつたのか。それはわるかつた……』
 かう言つて手早く窕子の持つてゐる文を奪はうとした。
『駄目ですよ。』
 窕子は笑つて、『それよりも本當に誰です? この人は? 何かまた身分のわるいものにでも出會したのではありませんか』
『大丈夫だよ』
 いくら窕子が責めても流石に兼家はその女のことを言はなかつた。
 しまひには窕子の眼から涙が流れた。そこに呉葉がやつて來た。その話をきいて呆れたやうな顏をして兼家を見詰めた。
『あんなお可愛い男のお子がお生れあそばしたのに……殿達といふものは……』
『女は何うせおもちやにされてゐるのですから……だから、呉葉、この間もそちには打明けなかつたが、つくづく思うた。女にはやはり子供ばかり……かう母者人がよく言はれたが、不思議なことを言ふと思うてゐたが、やはりその通りぢゃ。今はじめて思ひあたつた……』窕子は呉葉の手からその可愛い道綱を抱き取つた。
『まアそのやうなことをきつう言うて呉れな……かういふ可愛い男の子さへ出來たのだから、もう案ずることは少しもない……』
『それはさうでございませう。案ずることはございますまい……。女子を餓えさせて置くやうな殿達もございますまいほどに……。しかしそれだけで滿足してゐる女はありませうか? のう呉葉、お互に深く思ひ合ふほど、さうしたことは出來ない筈でございますのに』窕子の言葉には深い絶望の調子が加はつて行つた。
『殿はそのつもりで居られたのではござりませぬか。唯一たよりにする父親には遠く離れて、不憫だとは思召さぬのですか。この身はいかやうにもこの眞心を殿に捧げてゐるつもりですのに……』
『まア、好いよ』
 兼家の額には汗がにじみ出した。かれにしても窕子を腹立たせたり悲しがらせたりすることは、ほんのわづかなら好いけれども――却つて愛情の暴漲を來たすよすがとなるけれども、さういふ風に泣かれたり口説かれたりすることは男に取つて餘り好いことではなかつた。窕子の怨みや嫉妬を買はない程度でかれは他の女とも遊んで見たいのであつた。
 それから二三日經つたある夜のこと、呉葉は外から入つて來て、窕子の几帳のところに坐つた。
『何うした?』
『やつぱりさうださうでございます。留がそつとついて行つて何處に殿の車は入るかと思つてゐると、坊の小路の家に入つて行つたさうでございます』
『思つた通りだね』
『何うして殿はあゝいふ風に水心でゐられることか!』
『その坊の小路の女なら、そちは見たことがあるといふたね?』
『え、ちよつと……』
『何んな女子?』
『ちつとも好いことなんかございませんのです。色は白うございますけれど、容色は好いといふ方ではございません、……にくいではございませんか、留がそつと見てゐると、その女子が平氣で殿の車のところに出て來て、何か言つて居つたさうでございます……』
 しかしいくら憂鬱に閉されてゐても、窕子は何うすることも出來なかつた。それに、兼家が久しく見えないこともかの女には氣になつた。思詰めると、このまゝ此身は秋の扇と捨てられて了ふのではないかといふやうにすら思はれた。
 殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。
 兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。
 二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。
 頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもどして行くやうである……窕子は半ば身を起して、その車の音の向うに微かになつて行くのにじつと耳を傾けた。何とも言はれないかなしさが強くかの女の全身に襲つて來た。
 たしかにあそこに行つたに相違ない。それと知つたならば、じらせなどせずに、そのまゝすぐ戸を明けてやればよかつた。この身もわるかつたのだ。かう思ふと一層ひとり寢のさびしさが身に染みた。
[#ここから3字下げ]
歎きつゝ
ひとりぬる身の
あくる間は
いかに久しき
ものとかはしる
[#ここで字下げ終わり]
 夜が明けたらば、この歌を書いて兼家のもとに送らうなどと思ひながら、窕子は明方まで眠れなかつた。
 
         一二

 朝になつてそれを見事に短册に書いて、うつろつた菊にさして使のものに持たせてやつたが、兼家からはかへしがなかつた。それから猶一日經つてからであつた。實にやげに冬の夜ならぬ槇の戸もおそくあくるに苦しかりけり。そうした歌につづけて、『あの時もう少し叩いて待つて居れば屹度明けるにはちがひないとは思つたけれども、丁度その時急な用を言つて來た使のものがあったので、それで引返して了つた。わるく思つて呉れな……』と書いてある。いつもながら男は勝手なことばかり言ふものだと思ふと、腹が立つて、我知らず下唇を噛んだりしたが、しかも何うにもならなかった。そんなことを荒立てゝ言つて見たところで、男の心を此方へ移すことが出來るではなく、かへつてその状態をわるくするばかりなのはよく知れきつてゐた。それが窕子には心外でもあり悲しくもあり腹立たしくもあつた。此間、内裏に仕へてゐる歌の昔の友達がひよつくりたづねて來て、帝ときさいの宮との間に、此頃みにくい爭ひがあることなどを話して行つたことを窕子は自分の身の上に比べて思ひ出した。それは窕子とはうらはらのことで、何方かと言へばその女御の方にこそより多く同情さるべき位置にかの女はその身を置いてゐたのであつたけれども、それでもきさいの宮の方に一も二もなく同情させられて行つた。『それはきさいの宮がお腹立にならるゝのも當り前だ……。その前でさういふことをされては、誰だとて腹立たしく思わないものはござりますまい……。一體、その女御が餘り出しやばりすぎるからいけないんです。帝も帝だけれども、その帝の寵愛を好いことにして勝手に振舞ふからいけないのです。きさいの宮だつて、平生さういふことはちやんとお心得になつてゐらつしやるのだから、よくよくでなければそんなことはなさらない筈です』などと言つたことをくり返した。何でも帝はその小一條の女御を寵愛のあまり、おん手づから筝をお教へになつたり、歌を賜はつたりするばかりでなく、殆ど目にあまるやうなことをするので、それできさいの宮はいつもそれを夥しく憎んでゐられるとのことであつた。何處に行つても、さういふことは止むを得ないものか。帝やきさいの宮の仲にもさういふことは免れがたいものか。やつぱり女はさういふ時に出會したら、だまつて知らぬ顏をしてゐるより他爲方がないのか。その時その大内裏につとめてゐる友達とこんな話をしたことを窕子は續いて思ひ出した。
『それであなたは宮仕?』
『さういふわけぢやないけども……』
『宮仕はまた宮仕で忘れられない面白いことかあるさうですからね。つまらなく身をかためて了ふよりは、その方が好いでせうけども……』
『でも内裏は面白いこともあるにはありますけれどね』
 その友達は窕子の言葉を半ば否定するやうに、『やつぱり、女子といふものは、嫉妬に苦しんで命をなくすやうな苦しい目に逢ふても、それでもひとりでゐるものではないと思ひますね。色戀は出來ても誰も持たぬといふさびしみ、誰もしつかりつかんでゐないといふ孤獨、さういふことを考へると、内裏などで行はれてゐる色戀はそれこそ水の上に書いた字のやうなものですからね。だから、何んな人でも構はぬ。殿上人でなくてはいけないなど言つたのは、あれは昔、娘であつた時分の虚榮、今はもう何でも構ひませんよ。何方かと言へば、誰も知らぬやうな、唯毎日つとめるところにつとめて、夕方になるとそればかりを樂しみにして歸つて來るやうなさういふ夫だつたら一層好いと思ひますね』
『でも、それは駄目よ。それに滿足してゐられるあなたなもんですか。』
『それはまア、さうかも知れませんけども、まア話にして、さういふ風に考へることがよくありますよ。またあの御門あたりにつとめてゐる男子にさういふのがいくらもあるんですからね……。それを思ふと、平等に出來てゐるのね。』
 窕子は今またそれを繰返してこゝに考へ出さずにはゐられなかつた。

         一三

 兼家もしまひには笑ひながら、『何もそんなに案ずることはあるまい、この身はこれほどそなたのことを思うて居るではないか。普通の道端の花とは思つてはゐないのだから……』
『でも……』
『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』
『それはわかつてをりますけども、それでも……』
『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、
『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』
『相手をなさる女子は?』
『大勢居るよ』
『でも、殿の御氣に召した女子は……?』
『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』
『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』
 兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれ
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