お前の歌でわかつてゐるよ。知られねば身を鶯のふり出て啼きてこそ行け野にも山にも……。その心待はよくわかつてゐるよ。だからすまないつて言つてゐるぢやないか』言葉を強くして、『本當に何處に行つたんだ?』
『知らない……』                                                 
『自分の行つたところを知らずにゐるものがあるものか? 洞院の辻?』
『さうかも知れませんね……』                                
 窕子はまた勝利者のやうにして笑つた。洞院の辻には、かの女が曾てラブしたその大學生が失戀してから伯母の家に深く籠つてゐるのであつた。
 兼家の頭には、まさかとは思つてゐるけれども、それでもその崩れた築土の奧にある家の一間の中が眼の前にそれと映つて見えた。そこにかの女がゐる。この身には話すことを敢てしないことをかれに綿々として話してゐるかの女がゐる。曾てちよつと加茂の霜月の祭の時に通りすがりにその男を見たことはあるが、それは地位から言つてもとてもその身とは競走出來ないのはわかり切つてゐるけれども、そこにはまた普通では言へない細かい心持などがあつて却つてさうした富貴やら地位やらで強いて女の心を自由にしてゐる身であるだけその相手に對して此方の弱さを感じた。女は――ことに窕子はさういふところに殉情的になる質であるだけ一層それが氣になつた。
 兼家は昨夜來て、窕子がゐないので、いくらかやけ氣味で、女のゐないところにこの樂しい正月を寢たつてしようがないなどと言つて、これからすぐ何處かに行きでもするやうに呉葉達を困らせたが、夜がもはや子の刻を過ぎてゐて何うにもならないので、そのまゝ靜まつて、いつもの一間に夜のものを暖く、裏の竹むらに夜風の騷ぐのを聞きながら窕子の殘して行つた鶯の歌のかへしなどを考へて一夜をすごした。鶯のあたに率て行かん山邊にも啼く聲きかばたつぬばかりぞ。これほど此身はそなたのことを思つてゐるのに、かうしてこゝにひとりこの身を殘して、その美しい聲音をあだし男に聞かせてゐるとは! しかしこの身にもわるいところがないではなかつた。一昨日來れば好かつた。あゝいふ女の僞り心にひかれなければよかつた。あゝいふ女は――あゝいふ女は、そこまで考へて行つて、兼家は男にも女を責める資格のない身であることを深く考へた。曉近く厠に出て行つた時には、月が明るく竹むらを照して、手水盤の水が銀の匝器のやうに厚く氷つてゐた。
 そのあくる日であつただけに、窕子が午前に莞爾しなから歸つて來たのがかれはことに嬉しかつたのであつた。
『教へて上げませうか?』
『教へて呉れ!』
『やつぱりあそこよ。洞院の辻よ。あそこで大勢集つて詩の會をしたのよ。』兼家の顏のわるくむづかしげになつて來るのを可笑しげに見やつてゐたと思ふと、急に噴き出して、『本當はうそ! 稻荷に行つたのですよ。そしてあそこの禰宜の伯父の家に母と泊つたのですよ』
『本當か?』
『本當ですとも……。それだましてやつた! あの顏は! 呉葉も見よ?』窕子は聲を立てゝ笑つた。身を崩さぬばかりにして呉葉も笑つた。
『人を馬鹿にしてゐる!』
『だつて……』女達は餘程可笑しかつたもののやうに猶も止めずに笑ひ立てた。

         九

 さうした笑ひやら悲しみやら戀ひしさやらもだえやらの中にも、いつか新しい生はそのさゝやかな呼吸をその美しい母親の體の中で息つき始めた。と、母親の蛾のやうな黛にはいつか深い惱みが添ひ、人知れず几帳のかげでため息が出で、當然味はなければならないこととは言ひながら、その身にもたうとうさうした女子の運命が來たといふやうなことがたまらなくかの女を感情的にした。かの女は春から夏になつて行く間の期間をその靜かな一間で憂鬱に暮した。曇つた日のもだえ、雨の日の悲しみ、おぼろ月夜の花の下のうれひ、ことに、何うしてか山吹の花の黄色いのが深く身に染みて、縁に近くそれの花びらの白くなつて散つて行くのを見ると、たまらなく悲しい氣がした。何うしてかういふことがあのやうに母親や兄達を喜ばせたのだらう。さういふ人達は身がはつきりときまつたと言つて喜ぶのだけれども、何うしてこれがそのやうに目出度いだらう。この身の若い春は忽ち過ぎて行つて了ふではないか。それも、公に脊と呼び妻と呼ばるゝ身ならば――お互にそれを認めるばかりではなく世間の人達にもそれと認められて、互に縋つたり縋られたり、心が十のものならば互にその半をしつかりと握り持つて、見かはす眼にも、取り合ふ手にも、竝んで行く姿にも、朝夕の起居ふるまひにも、片時もさうした心の添はずにゐないことのない身ならば――それならば、この生るゝ兒も仕合せに、目出度いと祝はれても好いけれども、その身は浮萍のやうに、根がついてゐながら何處についてゐるのやらわからず、またいつ根が絶たれて了ふのやらわからず、縋るべき人には他にも澤山にさういふ人達がゐて、口では眞面目なことを言つてこの身を慰めて呉れるけれども、門外一歩を出れば、何處に何ういふ美しい人がゐて、かの人の心を忽ちに蕩かせて了ふやらわからず、それを思ふと、その身ばかりか、生れて來る兒もやはり不仕合せであることを思はずにはゐられなかつた。かの女は何ぞと言つてはよく眼の縁を赤くしてゐた。
 それに、つはりが人一倍強くかの女を襲つた。手水盥のところに行つて物をもどした。また物のにほひがわるく鼻につくと言つては厨の人達を驚かした。沈丁花の咲く時分から、平生好きであつたそのにほひが反對におびたゞしく嫌ひになつて、『呉葉、この花のにほひは昔からこんなにいやなかをりであつたかしら? あの廉いわるい香にそのまゝではないか』などと言つた。
 從つて身じまひなどもおろそかになつて、殿の來た時にもわるく髮を取亂してゐたりなどした。それでも殿には別にそれが氣にもならないらしかつた。否、むしろさうした取揃はない美しい女子の惱みは、海棠の雨に逢ひでもしたやうにかへつてその心を惹くらしく、またその體の中にその戀心のかたまりの呼吸つきつゝあるのを思ふとたまらなくいとしさがまさつてでも來るらしく、ひたしめに窕子をしめたりなどすることもあつた。
『男子といふものは、何うしてさう我儘で、薄情で、他のことなど何とも思はないのでせうね?』
 窕子はある時じつと兼家の顏を見つめるやうにして言つた。
『何うしてそんなことを言ふのだえ?』驚いたやうに兼家は言つた。
『私達の心は男子とは違ひますね……。もつと眞面目で、そして清淨ですね。何んなに戀しくつたつて、それを押へられないといふやうなことはありませんからね。……』窕子は深く思ひ沈むやうに、『でも女といふものは、さういふ風に生れる時から出來てゐるのかも知れません。綺麗な美しいことばかり考へてゐるのですから……。男女の仲にしても、心だけで十分に戀が出來るやうに出來てゐるのかも知れませんから……』かう言ひかけてたまらなく悲しくなつたといふやうに、衣の袖をかつぐばかりにして泣き伏した。
『何うしたのだ!』
 兼家はむしろあつけに取られたといふやうにしてその傍に身を寄せた。
 窕子の涙は容易にとゞまらうともしなかつた。たしかにかの女はヒステリカルになつてゐた。呉葉などがやつて來てやつとなだめて身を起した時には、眼は赤く腫れ、髮は夥たゞしく亂れ、惱ましげな姿が一層男に愛着の念を誘つた。『お中の子が私に似て泣虫なのかも知れませんね』こんなことを言つて窕子は莞爾笑つて見せた。

         一〇

 梅雨が幾日か續いたあとには、くわつと夏の日が照つて紫陽花がその驕女らしい姿をそのあたりにはつきりと見せた。
 もとの右大臣の御靈がゆくりなく京のひとりの少女子に憑いて、紫野の向うの北野の小松原の中に住みたいといふ託宣があつたので、それが大宮の奧をも動かして、その年の秋に取敢へず小さやかな宮をそこにつくることになつたが、今年は始めて天滿天神といふ謚號が贈られ、社も宏壯に改築されて、皆人がぞろぞろとそこにお詣りに出かけた。窕子は是非そこにお詣りしたいと思つたけれども、もはやお中が大きくなつて、とても牛車では行かれぬので、たゞその賑ひの氣勢のみを他から聞くことに滿足しなければならなかつた。そこに、窕子の代りにお詣りに出かけて行つた呉葉はもどつて來て、『それは賑かでございました。野道が一杯人で埋まつて、御社のあたりには、餘ほど何うかしないと近寄れないくらゐでした。それに、今日源民の判官が家の子郎黨をあつめて參詣に來て居りましたので、鎧兜が見事で、キラキラと日に光つて、それは本當に見物でした』などと話した。
 それに窕子に取つて嬉しかつたのは、遠くに行つた父の許から安着の報知の來たことだつた。その中には白河の關や安達の鬼塚のことが書いてあつて、とても女子の身では來たいにも來られぬところだなどと書いてあつた。
 八月になると、さしもに凌ぎがたかつた炎暑も次第に凉しくなつて、愛宕から北山にかけて秋の白き雲が靡き、垣根には虫の聲がすだくばかりにきこえた。中秋近い頃には、大内裏で歌會や詩會があつたりして、兼家は忙しさうにあちこちと出かけたが、それでも大抵はちつとでも來てかの女を見舞ふことを例にしてゐた。
 ある夜兼家が行くと、呉葉は飛んで出て來て、
『あ、ちやうどいらしつた。今、お使ひをさし上げようと致してをりましたところでございます……』
『物したか?』
『すこやかな、美しい、それはそれは玉のやうな……』
『男子か?』
『さやうで御座ります』
『それは好かつた……何うかと思うて案じてゐた……。母君は?』
『あちらにゐらつしやれます』
『苦しみはせざつたか?』
『あまりさう深くはお苦しみにもなりませんでした。巳の刻あたりから、さうした氣ざしはございましたけれど……ほんにさし込んでゐらせられたのは申の刻あたりからでございます』
『好かつた、好かつた――』
 そこに母親がやつて來た。母親の顏にもよろこびが溢れてゐた。
『別に……』
『二人ともすこやかで、今よく眠つてをります……。今、使を出さうと存じましたところでした……』
 眠つてゐても、こつそりでもそれを覗はずにはゐられないといふやうに、母親や呉葉の頻りに氣を揉むにも拘らず、兼家はそつとその産室を覗いて見た。そこには几帳が兩方から重なるやうに置いてあるが、灯の光がさう大して明るくないので、そこらに置いてある夜のものなどははつきりとは見えなかつた。たゞかれは髮のいつもに似ず白い紙で結ばれてあるのと、向うむきになつてぐつすり眠つてゐるのと、その襟から横顏だけがほのかに白く見えてゐるのと、その向うに今生れたばかりの小さな色の白い、それこそ本當に玉のやうな、髮の毛の黒く濃い赤兒が、その方は少しさめて、眼こそまだ明かぬが、口をもがもがさせてゐるのを兼家は眼にした。已にかれには邸の妻にも、女房にも子供がないではなかつたけれども、それでもその愛してゐる窕子であるために一層その生れた兒がもつと詳しく見たいやうな氣がした。
 かれは几帳の中まで入つて、いぎたなく眠つてゐる窕子を覗いた。
『殿! 殿!』
 そこに呉葉が來てとめた。かれは微笑を浮べながら引返した。

         一一

 産室から出てまだ一月とは經たないほどのことであつた。窕子は兼家の何處かに出かけたあとで思ひもかけないものを發見してはつとした。
 それは螺鈿の文箱の中に、ごたごたと懷紙やら短册やら紙やらが一緒に亂雜に入つてゐるのを、別に疑ふといふやうな氣持もなしに、むしろあまり散ばつてゐるからそれを整理しようぐらゐの心持でその中をあれこれとそろへてゐたのであつた。そこにはかの女の書いた反古もある。兼家の達者な字で書いた文もある。ふと、氣が附いた時には、窕子の眼はその文に燒附きでもするやうにぴたりと留つた。
 女は誰だかわからないが、その文言は何う考へ直してもラブ・レターであつた。それもかなり此方から打ち込んでゐるらしく、例の、この身の時にもさうであつたやうなうまい言葉
前へ 次へ
全22ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング