方から窕子のゐる西の對屋の方へと二三歩足をすゝめたばかりであるが、見てはならないものを見たやうな氣がしてかの女はじつとそこに立盡した。
 かの女の眼に映つたのは他でもなかつた。その築土の崩れのところを誰が見てもそれと點頭かれる狩衣姿の上品な若い男が童姿の供を一人つれて、そこを乘り越えて此方へと入つて來ようとしてゐる形であつた。その人はその向うの物かげに呉葉が立つてゐて、息を殺してそれを見てゐるなどとは夢にも知らず、薄暮の空氣があたりを名殘なく蔽ひ包んでゐるので、もはや人目にかゝる恐れもないといふやうに、何の躊躇もなしに、その崩れを乘り越して、草原の亂れがましい中をそのまゝ一歩一歩西の對屋の東の口へと近寄つて行つた。童姿の供の太刀の薄暮の中に動くのもそれと微かに透いて見えた。
 呉葉はじっとして蹲踞んでゐた。これはかうなるのが當り前だ! といふ風にかの女は思つた。かうなるのを邸の人達も皆な望んでゐる。その身とてさう望んでゐた筈である。これでもし縁が結ばれるならば、むしろそれは目出たいことである。さう思ひながらも、何となく胸がドキドキして、何う女君はするだらう。もしかしたら、それを拒むかも
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