ちのく紙の懷紙に書いた。
時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。
それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を※{#「賽」の「貝」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。
その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の
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