ゐないのだから……』
『でも……』
『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』
『それはわかつてをりますけども、それでも……』
『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、
『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』
『相手をなさる女子は?』
『大勢居るよ』
『でも、殿の御氣に召した女子は……?』
『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』
『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』
兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれ
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