腰を屈めて禮拜すると、『有難や……有難や……』といふ聲がそこからも此處からも起つた。
その大勢の參籠者の右の角のところに、小さな念珠を右の手にかけて、その白い顏を半群集の中に際立たせながら、じつと本尊の方を見てゐるのは、それはまがふべくもない窕子であつた。その傍にはもはやかなりに年を取つた髮の白い小づくりなやさしさうな母親が竝んで坐を取つてゐた。『有難や……』の聲のあちこちに起る時には、母も娘も共に念珠を繰つて禮拜した。
窕子ははるばる山を越してやつて來た効があるやうな氣がした。それは都の巷のそここゝに有難い御堂がないではない。かの女の苦しい悲しい悶えを托するに足るやうな本尊もないではない。しかしそこでは手を合はせ、珠數をつまぐつてゐる中こそ清淨な心になつてゐられるけれども、そこを、御堂を外に一歩でも出て了へば、忽ち煩惱が身に纏つて來るばかりではなく、眼にはさまざまの悲しいあはれな世のさま人のさま、心をときめかすやうな美しい色彩までがまざまざと映り、耳にはまたさまざまの誘惑やらまよはしが片時もその力を振はずにはゐないのであつた。それに比べたらこの御堂の有難さは! この御堂の壯嚴さは
前へ
次へ
全213ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング