には、呉葉ばかりではない父君もまたその堀川の殿も何んなに口を酸くしてなだめたり慰めたりしたか知れないのであつた。『それではお前はこの身がこれまでに思ふてゐるのを何とも思はずに何うしてもそんなに遠くへ行くと言ふのか? 思ひとゞまつて呉れ! 何うぞ思ひとゞまつて呉れ! お前がゐなくなつては、この都も何もあつたものではない、それこそ業平の朝臣のやうに、お前を追うて東下りをせねばならぬほどに、な、これ、さう泣かずに、父君を快よう立たせて呉れ!』かう言つて堀川の殿は几帳のかげに身を隱した女君の衣の袖に何遍その顏を當てたか知れなかつた。
 父君も度々來てなだめた。『この身も伴れて行きたいけれど、女の身ではさうもならぬほどに、さう長いことではない、二とせか三とせ!』
 窕子はよく涙をこぽした。そのやうな氣の弱いうまれつきではなかつた筈なのに――誰れにも負けてゐることのきらひな質であつたのに――またしても涙に袖を濡らすのを呉葉は眼にした。『だつて、呉葉、この身はこれまで父君をのみ頼りにして來たのに……父君にさへ離れて、この身がひとりこの都にとどまらねばならぬのではないか? 笑はずに置いてくれ!』かう言
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