やうになつてゐるのを誰も彼も見た。
しかし幸福の唯中にその身が浸されてゐるとばかり思はれてゐる時、綾や錦や美しい調度に包まれて、ざれ言雜りの歌の贈答や、輕いお互同士の戀の玩弄や、他の目にも餘るやうな甘たるい抱擁や、身も心も溶けるばかりの繪のやうな光景や、さうしたものばかりがそのあたりに想像されてゐる時、窕子と呉葉との間にかうした次のやうな對話が取交はされてゐようなどとは誰も想像することが出來なかつた。
『何うしてそんなことを仰有いますのですか?』
『だつて、お前……』
『世間では、あなたほどお仕合せな方はないと申してをります。それは北の方にはおなりあそばされない……。それは圓滿具足した貴い器の一つのきずと申せば疵で御座いますけれど、かしこいあたりでもそれは止むを得ないことでは御座りませぬか。それは生れで御座いますもの。何うにもならないもので御座いますもの……。あなたのお身にしても、關白どのの家にお生れなされさへすれば、北の方にでも何にでも心のまゝであらせらるゝでせうけれども……それはしかし何うにもならないことで御座いますもの……。それをいくら仰有られてもむだで御座りはしませぬか』
『
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