たか? 殿が?』
『きつとぢや、きつとぢや、すぐもどるほどに、のう……』
 二度目には母親がきいてゐるのなどはもはや頓着しないといふやうに、玩弄具をもてあそびなから、頻りに節をつけて歌でもうたふやうにして言ふのだつた。
『呉葉來て見や』
 かう窕子は呼んだ。
 呉葉も流石にそれには驚いたといふやうに、
『まア……まア、あこさまの聰明なこと……』
『だつてあんまりぢやないかねえ……。皆なきいて知つてゐるのだねえ――』窕子はたまらなく道綱が可愛相になつた。それはたとへ無意識であつたにしても、さういふ言葉を、いつとなく覺えて、それを歌か何ぞのやうに節をつけて眞似てゐるといふことは、何とも言へない一種の悲しさと心細さとを誘つた。その後兼家がやつて來た時、その話をして泣いたことを窕子は繰返した。
[#ここから3字下げ]
かひもあらじと
知りながら
命あらばと
たのめ來し
言ばかりこそ
白波の
立ちも寄り來ば
問はまほしけれ
[#ここで字下げ終わり]
 かの女はその長い歌を例の巧みな假名で懷紙に書いて、それを丸るくして、向うにある厨子の上の段へと載せて置いた。二三日經つて、兼家がやつて來たけれども、かの女は顏をもそこに出さなかつた。兼家はそれをそつと取つて歸つて行つた。つゞいてそれに對するかへしの長い歌が來た。
 その長い歌には何が書いてあつたらう。やつぱり男子の浮いた心が體裁よくかくされてありはしなかつたか。(お前は何故それでは打解けないのぢや。この身はお前を忘れたことはない。お前のことばかりを思うてをる。それをお前は何のわけもなしに、此身を袖にばかりしてゐるではないか。――寢覺の月の槇の戸に光殘さず洩れて來る影だに見えずありしより疎き心ぞつきそめし――二人の仲がこのやうになつたのはお前にも責任があるではないか)かういふ風にその長歌は詠まれてあるのであつた。窕子はじつとそれを深く考へた。

         二○

 互に打解けても打解けられないやうな月日が長く長く續いた。さうかと言つて兼家は全くその姿をそこに見せぬといふのでもなかつた。またその身はやつて來なくとも、歌やら消息やらは常に使にもたせてよこした。
 いくら悶えたからと言つて何うともならないといふやうな心持が次第に窕子の身の周圍に來た。苦しい時には默つてゐるより他爲方がない。いくら思ひのまゝにしようとしたとてそれは出來るものではない。また、何んなにつらいと思ふことでも、悲しいと思ふことでも、時には身も亡びるかと思はれるくらゐいらいらすることでも、じつと落附いてさへ居れば次第にそれが薄らいで行くものだといふことなどもそれとなく飮み込めるやうになつた。(これがこの人の世といふものだ……。誰にでもそれほどのことはあるものだ。單に自分にばかりそれがあるのではない。現に、その證據には、あの后の宮にもその苦しみがあるではないか。またその妹の登子の君にも、それにもました戀の苦しみがあるではないか)かの女は次第にその身の悶えをあたりの人達に比べるやうになつた。
『本當だね、何處に行つたつて思ふまゝにならないのだねえ?』
 ある日窕子はこんな風に呉葉に話しかけた。
『…………』
 呉葉は點頭いただけで、何も言はずに、そのまゝ窕子の言はうとするところを待つた。
『御門でさへ……そのやうなことをなさるのですもの』
 言葉を長く、いかにも歎かはしいやうにして窕子は言つた。
『何の宮のことでござりますか?』
『そら、そちも知つてゐるではないか、登子……きさいの宮?……』
『あ、お妹さま――』
『あの方のことなど考へると、この身などはまだ好い方かも知れぬ……』
『あの登子さまが何うかなさりましたか?』
『そちは知らぬか?』
『式部卿の宮さまのことではござりませぬか?』
『それはさうだけれども……それは誰も知つてるけれど……』
『何か他に?』
『御門が何うしてもお許しにならぬので……』
『御門が……』
 登子の姿を垣間見てから、何うしてもそれを大内裏に召すと言つて言ふことをきかなかつた。しかしそれにはその姉のきさいの宮の思わくもあることだし、またその一方では式部卿のこともあるので、それだけはたつて兼家の父がおことはり申上げたのであつたが、しかも御門は何うしてもその御心をひるがへさうとはせぬといふのであつた。
『まア……』
 呉葉も流石に驚かずにはゐられないといふやうに聲を立てた。
『殿がおつしやいましたのですか』
『これはお前、誰にも言つてはならぬことだよ……』
 窕子は聲をひそめた。
『お心安う……。それは決して他言などは致しませぬが、それにしても、あまりのことではございませぬか。つい、此間も小一條の女御のことであのやうに后の宮がお腹立におなり遊ばしたのに……それにもお懲りあそばさずに――』
『姉はまだ
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