そんなことは少しも知らぬのだなどと殿は申してをられたれど……』
『だつて知れずには居るものですか』
『だから困ると申して居るのだけれど――』窕子が殿から聞いたところでは、それが登子の棲んでゐる東三條の邸の裏の空地の新しい對屋での出來事だといふのであつた。そこは邸の内ではあるけれど、ずつと奧深く人目の遠いところなので、裏から入つて來れば、誰も知るものはないといふのであつた。呉葉の眼にもその新しい登子のゐる對屋ははつきりと映つた。かの女はつい此間も窕子の用事でその對屋へと出かけて行つた。そこにはいつも赤い鼻をした召使の女がゐて、それが呉葉の持つて行つた文箱を受取つた。時には口で傳へねばならぬ用事があるほどに、此方まで來よなどと言はれて、一二度はその登子の几帳の陰のところまで入つて行つたことなどもあつた。それはその美しさに目も※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]られるやうな君であつた。姉の后の宮も決して美しくないことはなかつたけれど、しかもその髮といひ、眼といひ、眉といひ、この妹君の方が幾段かすぐれてゐるのを否むことは出來なかつた。呉葉は昔の物語にある竹取の姫といふのもかういふ君であつたであらうなどと思ひつゝ歸つて來たことをくり返した。それに、かの女はいつもその裏の方から入つて行くのが例になつてゐたので、そこの竹むらに薄く夕日のさし込んで來てゐるさまなどをもはつきりと知つてゐた。それだけその話は一層かの女の心を惹いた。
『それに、もつと困ることがあるのよ……』
 聲をはづませて窕子は眼を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]るやうにした。
『…………』
『あの卿の君も始終あそこから入つて行くのだからね……』
『まア……』
『何でも殿の話では、それが一つにならぬとは限らぬといふのだから……』
『それは本當でございますか?』
『殿がさう言はれるのだから、まさかつくりごとでもあるまい……』
『さやうでございますね』
『殿はのんきなことを言つて居られたけれども、登子の君がさぞお困りになつてゐらつしやるだらうと思つて、それを考へると、お氣の毒で……』
『本當でございますねえ』
『それにつけても、つくづく女子といふものほどはかないものはないと思うた……』
『そのやうなことはございませぬけれど……』
『登子の君が何んなに困つてゐられるかと思うて……。それも普通のことなら消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』
 呉葉は問うた。
『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』
『まア、さやうでございますか?』
『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』
 さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』
『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』
『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』
『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』
『本當でございます』
『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』
『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』
『そんな話だねえ――』
『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』
『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか
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