『でも……見てゐても、お傷はしうございますもの……』
『だつて、しようがない……』
『殿は?』
 その交情が呉葉には心配になるのであつた。
『別に何でもない……』
『でも……』
 早くそゝくさと歸つて行つたのを呉葉は心配した。
『だつて、お前、さういふことは成行にまかせるより他爲方がないぢやないか……』
『でも……』
『もつとお前は私に殿の機嫌を取れと言ふの?』
 窕子はじつと呉葉を見詰めた。
『さういふわけではございませんけれど……』
『だつてお前……私の心が言ふことをきかないから仕方がない。昔から女子はそのやうに出來てゐると言うたとて、男に玩弄具のやうに取扱はれて、それで言ふことはきいて居られるか、何うか。そちにもそれはわからぬことはよもあるまい――』窕子の眼には涙が光つた。
『それはわかつてをりますけども……』
『坊の小路なら、さういふことも出來るだらうけれども、この身は……この身は……さういふ女子とは違ふほどに……』
『それは、それは――』
 呉葉も後には困つた。
『それはそちの心はわかる。そちは、この身を思ふあまりに、さう言うてその身のことのやうに心配して呉れるのだらう。それはようわかる……。この身とて……この身とて……それを望まぬではない……。なう、呉葉、この身とて……』あとは言はずに涙が堰を切るやうに窕子の眼から溢れ落ちた。

         一九

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陸奧の
つゝしか岡の
馬鞭草
來るほどをだに
待たてやは
よすかを絶ゆべき
阿武隈の
相見てだにと……
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 かう書いて來てかの女は遠い遠い父親を思つた。父親が行つてからもはや四たび年を重ねた。そのあとで生れた道綱も大きくなつた。母親は絶えず心配しては呉れる。しかし……しかし……。窕子はいつも遠い遠い父親を思つた。
 父親のたよりは、一年に二三度は來たが、しかもそれは長い月日をかけたものだつた。梅の花の咲く頃に向うを出たものが、卯の花も散りはて、子規の聲の老けた頃でなければ此方の手には入つて來なかつた。また秋出したものは、年の暮れでなければそれを見ることが出來なかつた。父親は容易に都に歸て來さうにも見えなかつた。初めの年は白河の關から大方二日路のところに留つて、むかしの山の井の物語のある安積の府のことだの、安達の鬼塚のことだの、阿武隈川がその近くを流れてはゐるが、まだ狹くて、流れも小さくて、とても歌枕に詠まれたやうな大河ではないなどと詳しく書いてよこしたりしたが、二年目からは、それよりも猶ほ五日路も六日路も奧に入つて、武隈の府から多賀の府の方へと出かけて行つたらしく、その消息さへ容易に手にすることは出來なくなつて了つたのであつた。
 かの女はたまさかに來るその手紙を唯一の戀人か何ぞのやうにして待つた。またその來た手紙は、何遍も何遍も出して來ては讀むので皺にされたり汚れたりするのであつたが、しかしそれを丁寧に疊んで、一つ一つ來た日をかきつけて、貝の蒔繪の文箱の中に重ねて藏つて置いた。此頃では何うしてかことにその父親のあたりが戀ひしかつた。何故あの時無理にでもそのあとについて歌枕を見に行かなかつたかと思つた。かの女の眼には、その父親が遠く遠く薄を分けて蝦夷の地近くまで入つて行くさまがはつきりと見えた。武隈の二木松などもそれと見えた。父親の手紙にはいろいろなことが書いてある。この多賀の府からは歌枕の千松島はもはやさして遠くない。今までは用事が忙しいので行つて見ることが出來ずにゐるが、秋にもなつなら、是非とも暇をこしらへて行つて見るつもりだ……などとも書いてある。窕子は父親をその松島の中に置いて、いろいろに想像して見たりなどした。
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さもやこまつの
みとり兒の
絶えずまゐるを
きく毎に
人やなくなる涙のみ
我身を海とたゝふとも
海松もよせぬ……
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 實際、窕子に取つては、その遠くにある父親と、その周圍に纏つて來てゐる幼い道綱とがその心をたまらなく悲しくさせるのであつた。道綱は今年數へ年の四つの可愛い盛りで、何ぞと言つて呉葉の手から窕子の膝へと凭りかゝつて來るのだつた。兼家のことなどをもよく覺えて、『殿……殿……』などと小さな手で指さしたりなどした。
『まア、此子が……』
 兼家が歸る時にいつも口ぐせのやうに言ふ言葉の一つを、それを誰も教へも何もせぬのに、室の隅で玩具を持つて獨あそびをしながら、獨言のやうに眞似てゐるのをきいた時には、窕子はあきれてさう言はずにはゐられなかつた。
『あこは好い子ぢや……今言うたことをもう一度言うて見や……』
『…………』
 幼ない道綱はじつと母親の顏を見るやうにした。
『言うて見や……』
『すぐもどる……すぐもどる……きつとぢや……』
『まア、さう言う
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