町の方へと行つたりした。窕子の邸に來る時には、それがすぐ向うの長く續いた築土のところで一先その警衞の聲が留つて、そこで列を碎いて、先に立つたものが二三人、それも大抵はいつもきまつて鼻の際立つて大きい肥つた下司がふくみ聲で、『お出でます、お出でます……』と先觸するのが例になつてゐた。と、いままでひつそり火の消えたやうになつてゐた家の中が俄に活氣づいて、下司も侍女も厨の女も忽ちにして忙しくなるばかりでなく、呉葉もそはそはと門のあたりを行つたり來たりして、そこに靜かに鷹揚に一人二人の供を伴れて兼家が狩衣姿で入って來るのを迎へた。
『お出でます――』
かう言つて呉葉は丁寧に、さもさも自分のことでもあるやうに嬉しさうに莞爾して迎へるのが常であつた。
奧にゐる窕子にもその來る來ないがよくわかつた。申の下刻をすこし過ぎたと思ふ頃には、きまつてその大内裏から下つて來る警衞の懸聲がそれとなくはつきりきこえるのであつたが――他にも九條殿だの、小三條の殿だのの警蹕もないではなかつたけれども、それは長年の習慣で、その懸聲の調子や何かで、今のは誰? といふことがはつきりとわかるのであつたが、その角のところでとまるか何うかといふことがいつもひそかに窕子の頭を惱ました。從つて窕子は内の誰よりも先に――主人に此上なく忠實な呉葉よりも先に殿の來るか來ないかがわかつた。
『あ! 行つて了つた……今宵も來ない』かう何遍かの女は口に出して言つて失望したか知れなかつた。その行列がサツサと行つて了へば、それが最後で、あとは秋の長夜を、さびしい獨寢の長夜を、虫がすだいたり月がさしたりまた時には雨が烈しく心細く降つたりする夜をひとりさびしく送らなければならないのである。かの女はそれを考へるといつもうんざりした。また一夜眼をさましていろいろなことを考へなければならないのか。それもたゞ眠られぬといふだけならまだしもだけれども、あだし女子と何處で何うして寢てゐるであらうか、またあの坊の小路だらうか、それともまたこの頃出來たといふ河原の邸だらうか、そんなことを考へると、自分の家にとまつた時のことに引きくらべて、忽ち赫とならずには居られないのであつた。此の身の當然すべきことを他の女子がやつてゐる。それだけでたまらなく身内が削られるやうに業が煮えて爲方がないのに、この虫の音をも向うではさびしとはきかず、この月の光をも盃に受けて竝んで夜を更してゐると思ふと、ゐても立つてもゐられないやうな氣がした。
であるから、そこで、その角で、その警衞が留るか否かといふことは窕子に取つては大きな問題だつた。かの女はじつとしてその時の來るのを待ち、またその時の過ぎるのを待つた。そして過ぎて了ふとかの女はがつかりした。後には呉葉と顏を合わせることがきまりわるくなり、それが昂じて、さう深く自分の身のことでもあるかのやうに案じて呉れることに一種の腹立たしさを感じて、ある時などは、『お前、もうそんなにハラハラ思はないでおいておくれよ、だつて、お前のことぢやなし、私のことなんだから。來たつて來なくたつて、一々そんなことを氣にしては生きてゐられはしないよ……。來たくなければ來なくつたつて、何もそんなに氣を揉むことはないよ』などと不機嫌に當り散らした。そのくせ、窕子は來ない日の續くのをいかにもさびしさうにたれこめてのみ暮すのだつた。
それでも何うかすると、その警衞の行列がぴたりと留つて、鼻の大きいその含み聲の下司が、『お出ます、お出ます……』と言つてバタバタと入つて來た。
しかし此頃では窕子の心はわるくすねるやうな形になつて行つてゐた。來て貰つて嬉しくないことはないのだけれども、それを無邪氣に面にあらはし喜ばしさうにするといふのは、何となく自分の心を卑くすることで、それでは女としての意地も張りも何もないやうな氣がして、わざとツンとしたやうな顏を見せることが多くなつた。さうでなければわるく素氣なく取扱つて一夜後向きになつてすゝりあげて見せたりなどした。
さういふ夜でも窕子はいつか兼家の腕にまかれて、すゝり上げながらだらりと長い黒髮を屍でもあるやうに亂がましく下に垂らしたりなどした。
朝になつて兼家は呉葉に言つた。
『何うも困る女だね』
『だつて、殿がおわるいのですもの……』
『それはさうだらうけれども、よく言つて置いて呉れ……。決して何うのかうのと言ふのではないのだから、此頃は少し忙しいのだから、それに、此間は物忌になつたりして、こもり勝ちに暮してゐたものだから……』
『でも、お忘れないやうに――近うお出下さるやうに――』
『わかつた! わかつた』
他の女のことをあまり手ひどく嫉妬されるのはそれは好ましいことではなかつたけれども、しかしさうした女のヒステリカルな感情が、男に一種の興味を齎らすことには間違ひ
前へ
次へ
全54ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング