ども、その闇の巷路を五六歩入ると、そこに全く違つた夜の光景がひらかれて、其處にも此處にも置かれた結び燈臺の光が、髮の長い、色のくつきりとぬけるやうに白い、普通上流の女達の着けるものとは違つた、派手な襲ね色の或は紫に、或は紅に、縹色に、銀色にかゞやいた衣裳を着けて、それもだらしなく、几帳などは横さまにして、戸口まで出て迎へて行つたりする女達を見るのであつた。否、もう少し中に入つて行くと、室が奧から奧へと二つも四つも連つてゐて、その室毎にさうした女と狩衣の袖を亂した男とがゐて、たまには女が聲張上げて歌をうたひ、それにつれて傍にゐるやゝ年老いた女が琵琶を彈き、男は男でその頃流行る小曲を歌つた。
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挿櫛は十まり七つありしかど、
たけくの縁の朝にとり
ようさりにとり、
取りしかは、
挿櫛もなしや。
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 これに似た小曲がいくつもいくつも男の口から出て來た。後には男と女と一緒に立つて舞つたりなどした。あとからあとへと女童は提銚子に酒を入れたものを運んで來た。窕子は何うしてさういふ坊の小路の光景を知つてゐるかと言へば、かの女はつい今から二月ほど前、兼家がそこで現をぬかして遊んでゐるといふのを聞いて、家の男の子につれて行つて貰つて、そつとその闇の中に俄かに蜃氣樓か何かのやうにあらはれて來る賑かなさまを覗いたのであつた。成ほど男達が坊の小路、坊の小路と言つてそれを大騷ぎするのは無理もない、女の身で見てさへこのやうに面白いのだものとその時窕子は思つたことをくり返した。
 で、男はそこで女を相手に終夜遊び散すらしいのだが、女房達の局の内や、琴、笛の夜の會などとはまた違つて、碎けた、氣の置けない、のんきな歡樂のそこにあるらしいのが窕子にもわかつた。窕子はそこを通る時、面がほてつて爲方がなかつたことを思ひ起した。じろじろと見られたゞけで、別にわる口らしい放言は浴びせかけられなかつたけれども、何うして女の身でこんなところまで入つて來たらうと後悔したことを思ひ起した。ことに、暗い一室に、結び燈臺も細々としかともつてゐない一室に、二人の男女が身を寄せ合うて打伏すやうにしてゐたさまが、今でもはつきりと眼の前に浮んで來た。窕子はいくらか心が焦立つて來た。
『あなたには、あそこでも、もう、ちやんときまつた方があるのでせう?』
『ありはせぬよ』
 兼家の笑顏は却つてその反對な心持を裏切つた。
『隱さなくとも好いではございませんか。今度、この身をもそこに伴れて行つて逢はせて下さい………』
『よし、よし、そんなに行つて見たいなら伴れて行つて逢はせてやらぬこともない』などと言つて、兼家は却つてそれを肯定するやうに言つた。
 これに限らず、ずつと前から、兼家の好色の噂を、窕子は何彼と聞いて知つてゐるのであつた。兄の攝津介は此頃は伴につれて行かれたりなどするので、もはや此方ばかりの味方にして置くことは出來なかつたけれども、それでもその言葉の端からいろいろなことがわかつた。女房の局の方にあるのは、もはやかなりに深いらしく、その女は地位もその身よりは好く、何ぞと言つては却つて窕子のことを問題にしてゐるらしく、此方に可愛い男の兒が生れたのを兼家はそこにはひたかくしにかくして置いたのを、ある時誰れかがそれを知らずについ口を滑らして了つたので、それを死ぬほど嫉妬して、しまひには此方を呪はうとさへしてゐるのを窕子は耳にした。しかしその局の女に對してはかの女はさう大してやきもきしてはゐなかつた。かの女はその女を曾てそつと見たことかあつた。美しいには美しいにしても、とてもこの身に及ぶべくもないと思つた。窕子は優越感を十分に感じた。この他にも藤壺の侍女の中に兼家が深く思をかけた女のあることを窕子は聞いた。
 可愛い子供が出來ればそんなことはなくなる。それは兼家の方のことを言つたのか、それとも自分の方の心のことを言つたのか。まだ子供が出來ない中には、それは無論兼家の方のことを言つたので、さうなればひとり手に愛情が此方に移つて來る。可愛い子の愛にひかされてひとり手に足が此方に向くやうになる。さう思つてばかりゐたのに、子供が出來てからは、それはさういふ意味ではなくて、單に此方の心持――子供の愛に慰められて、さうした男の好色をも堪へ忍ぶやうになるといふことであるといふことが窕子にも次第に飮み込めて來るやうになつた。(男の心には女があるばかりだ……)窕子はひとり寢の夜など唇を噛んでかう獨語した。この人の世のことが年を經るにつれて次第にぴたりと身に觸れて來るのを感じた。

         一四

 兼家の行列はいつも大内裏から西洞院へと下つて行つた。それは普通は東三條の邸へと行くのが常であるが、ともすると、それが堀川の方へ行つたり、また時には西の京の荒れ果てた
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