る。いつもながら男は勝手なことばかり言ふものだと思ふと、腹が立つて、我知らず下唇を噛んだりしたが、しかも何うにもならなかった。そんなことを荒立てゝ言つて見たところで、男の心を此方へ移すことが出來るではなく、かへつてその状態をわるくするばかりなのはよく知れきつてゐた。それが窕子には心外でもあり悲しくもあり腹立たしくもあつた。此間、内裏に仕へてゐる歌の昔の友達がひよつくりたづねて來て、帝ときさいの宮との間に、此頃みにくい爭ひがあることなどを話して行つたことを窕子は自分の身の上に比べて思ひ出した。それは窕子とはうらはらのことで、何方かと言へばその女御の方にこそより多く同情さるべき位置にかの女はその身を置いてゐたのであつたけれども、それでもきさいの宮の方に一も二もなく同情させられて行つた。『それはきさいの宮がお腹立にならるゝのも當り前だ……。その前でさういふことをされては、誰だとて腹立たしく思わないものはござりますまい……。一體、その女御が餘り出しやばりすぎるからいけないんです。帝も帝だけれども、その帝の寵愛を好いことにして勝手に振舞ふからいけないのです。きさいの宮だつて、平生さういふことはちやんとお心得になつてゐらつしやるのだから、よくよくでなければそんなことはなさらない筈です』などと言つたことをくり返した。何でも帝はその小一條の女御を寵愛のあまり、おん手づから筝をお教へになつたり、歌を賜はつたりするばかりでなく、殆ど目にあまるやうなことをするので、それできさいの宮はいつもそれを夥しく憎んでゐられるとのことであつた。何處に行つても、さういふことは止むを得ないものか。帝やきさいの宮の仲にもさういふことは免れがたいものか。やつぱり女はさういふ時に出會したら、だまつて知らぬ顏をしてゐるより他爲方がないのか。その時その大内裏につとめてゐる友達とこんな話をしたことを窕子は續いて思ひ出した。
『それであなたは宮仕?』
『さういふわけぢやないけども……』
『宮仕はまた宮仕で忘れられない面白いことかあるさうですからね。つまらなく身をかためて了ふよりは、その方が好いでせうけども……』
『でも内裏は面白いこともあるにはありますけれどね』
その友達は窕子の言葉を半ば否定するやうに、『やつぱり、女子といふものは、嫉妬に苦しんで命をなくすやうな苦しい目に逢ふても、それでもひとりでゐるものではないと思ひますね。色戀は出來ても誰も持たぬといふさびしみ、誰もしつかりつかんでゐないといふ孤獨、さういふことを考へると、内裏などで行はれてゐる色戀はそれこそ水の上に書いた字のやうなものですからね。だから、何んな人でも構はぬ。殿上人でなくてはいけないなど言つたのは、あれは昔、娘であつた時分の虚榮、今はもう何でも構ひませんよ。何方かと言へば、誰も知らぬやうな、唯毎日つとめるところにつとめて、夕方になるとそればかりを樂しみにして歸つて來るやうなさういふ夫だつたら一層好いと思ひますね』
『でも、それは駄目よ。それに滿足してゐられるあなたなもんですか。』
『それはまア、さうかも知れませんけども、まア話にして、さういふ風に考へることがよくありますよ。またあの御門あたりにつとめてゐる男子にさういふのがいくらもあるんですからね……。それを思ふと、平等に出來てゐるのね。』
窕子は今またそれを繰返してこゝに考へ出さずにはゐられなかつた。
一三
兼家もしまひには笑ひながら、『何もそんなに案ずることはあるまい、この身はこれほどそなたのことを思うて居るではないか。普通の道端の花とは思つてはゐないのだから……』
『でも……』
『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』
『それはわかつてをりますけども、それでも……』
『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、
『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』
『相手をなさる女子は?』
『大勢居るよ』
『でも、殿の御氣に召した女子は……?』
『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』
『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』
兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれ
前へ
次へ
全54ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング