打明けなかつたが、つくづく思うた。女にはやはり子供ばかり……かう母者人がよく言はれたが、不思議なことを言ふと思うてゐたが、やはりその通りぢゃ。今はじめて思ひあたつた……』窕子は呉葉の手からその可愛い道綱を抱き取つた。
『まアそのやうなことをきつう言うて呉れな……かういふ可愛い男の子さへ出來たのだから、もう案ずることは少しもない……』
『それはさうでございませう。案ずることはございますまい……。女子を餓えさせて置くやうな殿達もございますまいほどに……。しかしそれだけで滿足してゐる女はありませうか? のう呉葉、お互に深く思ひ合ふほど、さうしたことは出來ない筈でございますのに』窕子の言葉には深い絶望の調子が加はつて行つた。
『殿はそのつもりで居られたのではござりませぬか。唯一たよりにする父親には遠く離れて、不憫だとは思召さぬのですか。この身はいかやうにもこの眞心を殿に捧げてゐるつもりですのに……』
『まア、好いよ』
 兼家の額には汗がにじみ出した。かれにしても窕子を腹立たせたり悲しがらせたりすることは、ほんのわづかなら好いけれども――却つて愛情の暴漲を來たすよすがとなるけれども、さういふ風に泣かれたり口説かれたりすることは男に取つて餘り好いことではなかつた。窕子の怨みや嫉妬を買はない程度でかれは他の女とも遊んで見たいのであつた。
 それから二三日經つたある夜のこと、呉葉は外から入つて來て、窕子の几帳のところに坐つた。
『何うした?』
『やつぱりさうださうでございます。留がそつとついて行つて何處に殿の車は入るかと思つてゐると、坊の小路の家に入つて行つたさうでございます』
『思つた通りだね』
『何うして殿はあゝいふ風に水心でゐられることか!』
『その坊の小路の女なら、そちは見たことがあるといふたね?』
『え、ちよつと……』
『何んな女子?』
『ちつとも好いことなんかございませんのです。色は白うございますけれど、容色は好いといふ方ではございません、……にくいではございませんか、留がそつと見てゐると、その女子が平氣で殿の車のところに出て來て、何か言つて居つたさうでございます……』
 しかしいくら憂鬱に閉されてゐても、窕子は何うすることも出來なかつた。それに、兼家が久しく見えないこともかの女には氣になつた。思詰めると、このまゝ此身は秋の扇と捨てられて了ふのではないかといふやうにすら思はれた。
 殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。
 兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。
 二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。
 頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもどして行くやうである……窕子は半ば身を起して、その車の音の向うに微かになつて行くのにじつと耳を傾けた。何とも言はれないかなしさが強くかの女の全身に襲つて來た。
 たしかにあそこに行つたに相違ない。それと知つたならば、じらせなどせずに、そのまゝすぐ戸を明けてやればよかつた。この身もわるかつたのだ。かう思ふと一層ひとり寢のさびしさが身に染みた。
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歎きつゝ
ひとりぬる身の
あくる間は
いかに久しき
ものとかはしる
[#ここで字下げ終わり]
 夜が明けたらば、この歌を書いて兼家のもとに送らうなどと思ひながら、窕子は明方まで眠れなかつた。
 
         一二

 朝になつてそれを見事に短册に書いて、うつろつた菊にさして使のものに持たせてやつたが、兼家からはかへしがなかつた。それから猶一日經つてからであつた。實にやげに冬の夜ならぬ槇の戸もおそくあくるに苦しかりけり。そうした歌につづけて、『あの時もう少し叩いて待つて居れば屹度明けるにはちがひないとは思つたけれども、丁度その時急な用を言つて來た使のものがあったので、それで引返して了つた。わるく思つて呉れな……』と書いてあ
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