がなかつた。兼家に取つては、何處に行つても窕子のやうな女は見出せなかつた。從順と謙遜と虚僞とのみにかれは倦んでゐた。
かれはそのあくる日大内裏のあるところである若い殿上人にこんなことを言つた。『御身なんかにはまだ女のことなんかわからないね……。局の女房達のところだつて大したものではないしね。坊の小路だつてちよつとは面白いけれども、あれだつて、しまひには底がわかつて了ふし、やつぱり戀は向うの相手の如何だと思ふ。御身はまだ女の一夜泣いたのを介抱したことがあるかね? あるまい? さういふ面倒なところに面白味があるのが戀だよ。やつぱり女は女だからね。いくらすねて見せたつて、やつぱり男のものだからね。だから、嫉妬する女にも面白い一面があるよ。たうとう一夜一睡も取れなかつた……。それで今日眠うていかん』
『河原でござるか?』若い殿上人は笑つて訊いた。
『まア、そんなことはまア何處でも好いけれど……』
かう言つて兼家も笑つた。女がヒステリカルに振舞つた美しいその態度は、その時になつても一種の深い男性的愛着を兼家に感じさせずには置かないのであつた。
また數日經つた後にはその同じ若い殿上人に兼家が話した。
『何うも、女子といふものは面倒なものぢや』
『何うかなさりましたか』
『別に何うといふことないが、もう少し離れてゐて呉れれば好いと思ふことがござるな……』
『またよべ御介抱なされましたか』
『さうぢやない、今度のは別じゃがのう……。何うしてあゝ女子というものは嫉妬深いものかなう……。いくら申してきかせてもわかり居らぬ……』
『殿は果報者でござるほどに……この身などは、この若さに、まだひとりすらさういふものを持ちてだにあらぬに………殿は――』
『局のは何うし居つた?』兼家は笑ひながら言つた。
一五
幼ない道綱はいつの間にか數へ年の三つになつて、此頃は片語雜りの言葉を可愛い口から言ふやうになつた。窕子に取つてはそれがせめてもの慰藉であつた。普通館の人達は子が生れると北山あたりに好い乳母をもとめて、そこに數年里子に出して置くのを常としてゐたけれども――兼家もそれを希望しないではなかつたけれども、窕子はこの私の小さい珠玉だけは片時も自分の胸から離すことが出來ないと言つて、ひたとそれをかき抱いたので、それでそこで育てらるゝことゝなつた。しかし里の母親などは、昔人だけにそれをひどく心配して、殿の足の此頃間遠に編まれた簾のやうになつたのは、その幼い兒をそのまゝそこに置くためではあるまいか。子を持てば女子の姿はあさましくなると言はれて、好色の殿達はそれをひとつの邪魔者のやうに、また子の愛に執着してそれから離れて來られない女子はもはや色戀の對照ではないといふ風に思はれてゐるのに、それを平氣で對屋で養つてゐるので、それで殿は來られなくなつたのではあるまいか。今からでも遲いことはない。いつそ世間並に北山へやるやうにしては――? かう母親は絶えてそれを氣にして言ふのであつたけれども、しかも窕子はそれに耳を留めようとはしなかつた。そのやうな薄い情のために、この大切な珠玉を失くして何うなるものぞ! そのやうなことは別にしてそなたを思うて慈しんでくれるのでなうては、父親と言つても、それは單に名ばかりではないか。何うして! 何うして! この身の姿がいかにあさましうならうとも、この身がそのため何のやうに痩せてみにくくならうとも、この身は單なる男の子のもてあそびものでない上は、この子を手放すことではない。窕子は強く強くその可愛い子を抱きしめた。
呉葉もそれには同情せずにはゐられなかつた。何ぞと言つては、道綱を伴れてはその女君のゐる几帳の方へと行つた。
『おゝ、よう參つた! あこは好い子になつたのう!』
かう言つて窕子はこつちへとそれを引寄せた。
『あこは本當にうつくしう――』引寄せてたまらなくなつたと言ふやうに、その身の苦しみやら男に對する嫉妬やら體の平均しない感情やらに堪へられなくなつたといふやうに、その赤い滑かな小さな頬にあつい口をぴたりと當てた。思はず涙が底から溢れ漲つて來た。
その頬の吸ひざまがいつもとは違つて強く烈しかつたので、小さき道綱は急に聲を立てゝ泣き出した。
『お、よし、よし、母があまりつよう吸うた! 許して呉れ! 許して呉れ、さうつよう吸うたつもりではなかつたのに! お、よし、よし』
窕子は慌てゝ引起して、それを一生懸命になだめた。
『よし、よし、本當に、この母がわるかつたのう、わびた、わびた、これこの通りにわびた!』
泣き出した道綱はしかも容易に泣き止まうとはしなかつた。
呉葉が抱き寄せて、
『何ともなつてゐはせぬのでございますのに……。おゝ、母者が吸うた。わるかつた。わるかつた。母者のとこに伴れて來ずばよかつた…
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