ちの童の群の中を通つて行かなければならないやうな時もあつた。さういふ時には、つとめてそれを避けるやうにして、危いところは驅足で通つた。時にはそれが飛んで來て車の窓に當つたりなどした。牛飼は大きな聲で怒鳴つてその童の群を追ひ散らした。
いくらか氣分が好いといふ時には、窕子は非常に元氣づけられたやうにして戻つて來た。『いくらかは小さくなつた……それもお前が大原野に參つてくれる御利益だらう。あれで小さくなつて行けば、それこそ優曇華の花が咲いたやうなものぢや……』などと呉葉に言つた。呉葉は今でも三日おきに行縢をつけ藺綾笠をかぶつて、わざわざその遠い地藏堂へと參詣に行つた。
兼家の眼にも、その憂愁のために窕子の頬が此頃夥たゞしくやつれて來てゐるのが映つた。『何うかして、何うかしてあの母者の病氣を治したいものぢやが………あの内裏の醫師に見せて貰うてつかはさうか』などと兼家は言つた。兼家はやがてそれを取計つて呉れた。當代に名高い醫師の車はやがてその邸の西の對屋まで奧深く入つて行つた。しかし何うにもならなかつた。窕子の憂愁はつひに除かれなかつた。
ある夜はこんな話が兼家と窕子の間に出た。
『だつて、母者にもしものことがあるといふことは私には考へられない……。もしそんなことがあつたら、とてもこの身も生きてゐられない……』
『こまつたことぢやのう……。何うかして、もう一度もとにもどしたいものぢやが……あの醫師にかかつてさへ、驗が見えないとなると、他に何うもならないからのう……困つたものぢや』
『七年も八年も父上と離れてゐて、やつともどつて來て、これから少しは樂しい暮らしも出來ると思うてゐたのに……それなのに、こんな病氣に取つかれて……』
『何うも困つたものぢや。さうかと言つて、天命ばかりは何うにもならんでな。何のやうに尊い方でも、いざとなつては止むを得ないぢやでな……』
『この身は、この身は――』
窕子は泣き沈むのだつた。――今日もかの女はその母親の枕邊に長い間坐つた。痛みだけでも何うかしたいと思つて、せつせと罨法を手傳つて取替へてやつた。かをるも一生懸命に世話をした。父親も今日は内裏を休んで一日そこに顏を出してゐた。長い間の病氣に母親は非常に衰へて、顏などは丸きり別な人のやうになつて了つた。それに、此頃ではおも湯すら十分に取ることが出來なかつた。少し入つたと思ふと、すぐまたそれをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。
ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。
道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。
『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』
『…………』
さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。
『何うかしたの?』
窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』
『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。
『何でもない、何でもない……』
窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。
『…………』
不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。
『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』
『おばアさんの病氣!』
『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』
『本當だね……』
道綱はそれでもいくらか安心したといふ
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