やうにして母親の顏を見詰めた。と、それと同時に窕子の頭にはいろいろなことが一杯に漲るやうにあつまつて押寄せて來た。兼家のことについてこれまで長く苦しんで悶えて來たこともあるが――今でもそのために苦しんでゐないことはないのだが、しかもそれ以上にこの人生のことが深く大きくかの女の頭にひろげられ逼つて來るのを感じた。今までのかの女の心持のやうな氣分ではゐられないやうな氣がした。道綱と自分のことがそれとはつきり思ひ出されると共に、兼家と自分と道綱のことがはつきりその眼の前に浮んで來た。自分も一度はさうした悲哀をこの道綱に味ははせなければならないのである。母子の別れは何うしたつて否定することは出來ないのである。さう思ふと、戀といふものに對する考へ方も、愛といふことに對する考へ方も、今までとは違つて、すつかりそこにその全面をあらはして來たやうな氣がした。何んなに人間に悲哀があつても――その愼恚と嫉妬とのために身も魂も亡びさうになるやうなことがあつても、そんなことには少しも頓着せずに、人生と自然とはその微妙な空氣をつくつて、徐かにその歩んで行くべきところへと歩いて行つてゐるのだつた。さう思つた時には窕子はたまらなく悲しくなつて來た。自分のその身が悲哀と共に何か大きな空間にでも漂つてゐるやうな氣がした。窕子は道綱に知れぬやうにそのこみ上けて來る涙の潮を咽喉のところで堰きとめるやうにした。

         三八

 窕子は裏の築地の出口のところに立つて、もはやそろそろ秋にならうとしてゐる草原の方を眺めた。小さな野萩、それにポツポツと露が置いてあつた。そしてそれも時の間に日影に乾いて行くのだつた。水引の花などもさゝやかなくれなゐをそこに見せて、これでも花だといふやうにツンツン草の中に雜つて見えた。何故か窕子の心はさうしたはかないものの方にのみ寄つて行つた。誰もめづる花も好いだらう。大きな美しい花も好いだらう。しかしそれよりもあるかないかの花――微かにそこに草原のみだれの中にその小さな存在を示してゐるやうな花、さういふものが何とも言へずなつかしいやうな氣がした。さういふ花さへある。二日と咲いてゐない花さへある。さうした存在でさへひとつの立派な存在である。こんなことを考へながら窕子はじつとそこに立盡した。
 そこに呉葉が行縢姿でその參詣から歸つて來た。
 主人思ひの呉葉は、心配さうに傍に寄つて來た。
『御苦勞だつたね……』
 呉葉の姿にしても此頃次第に年を取つて來てゐるのを窕子は見落さなかつた。かの女は言ふに言はれない感謝をそこに感じた。母親についでの自分の同情者! 自分のためにその半生を奉仕しようとするその同情者! 母親がゐず、呉葉がゐなかつたら、その身はとてもこゝまで無事に來ることは出來ないに相違なかつた。
『今日は?』
 いつも引いて貰つて來るみくじのことを窕子はそこに持ち出した。
『今日のは、あまり好い方ではございませんでした――』
 袖のところから、呉葉はそれを出して見せた。
『二十九凶』としてあつた。窕子はだまつてじつとそれを見詰めた。
 母親にこれまで何のやうに心配をかけたであらうといふことが、その時何故かはつきりと胸に浮び上つて來た。
『でも、そんなにわるいおみくじではないさうでございます……』
『…………』
『きいて見ました……ところが、この凶は同じ凶でも吉に向う方の凶だと申しました。御心配なさることはござりますまいと申しました――』
『御苦勞だねえ、本當に……』
 かう言つて窕子は呉葉がいつものやうに向うに歩いて行くのをじつと見詰めた。かの女は自分ながら不思議な氣がした。何うしてかう物を見つめる氣になつたか。何うして小さな野の花に眼をつけたり、愛宕の山の上に白くふわふわと靡いてゐる一片の雲に心を惹かれたりするのか。これもそのためか。その大きな悲哀の壁を前にしたためか。その日の夕暮には、兄の長能がやつて來て、父親もさびしさうにしてゐる話などをした。
 人の噂では兼家はこのごろまた新しい女に沈湎してゐるといふことであつたけれども、窕子に對しては、そんな形は少しも見せなかつた。昔はさういふことがあつたりすると、わざとそれをその前ににほはせて、半分は嫉妬をやかせて見るといふやうな態度に出るのが常であつたけれども、今はそんな風は面に表はさずに、却つて常よりもやさしい態度に出るやうになつた。そしてその心持は窕子にもよくわかつた。しかも窕子はそれに取り合はうとしなかつた。今更何うにもならない運命を窕子は感じた。
 ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出
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