者にもかけて見たが、何うも本當のことはわからないといふ。何か憑物でもしたのではないかと言つてそれを落すために修驗者などを呼んで見たが、何うもそれでも驗が見えない。『なアにそんなに案ずるには及ばない。いまにぢきに治る……。お前が今日來るまでには起きるつもりでゐたのだが……』などと病人は手輕に言つてゐるのであるが、何うもいつもの風邪とは違つてゐるらしいので、窕子は急に慌て出して、早速殿のかゝりつけの醫者を招んで來て見せたり、寺でごま[#「ごま」に傍点]を焚いて貰ふやうにわざわざ使者を北山に出したりした。それから梅雨の節が來て、往つたり來たりするのも路が泥濘で困つたりしたが、しかも心配してやつて來る度に、『もう好い。今日は大分好い。北山のごま[#「ごま」に傍点]がきいたと見えて、氣分がさつぱりした……』などと言つてゐるに拘はらず、次第にその體のやつれて行くのを目にした。そればかりではなかつた、さみだれが晴れて京の町が日影にかゞやく頃になると、急に胸が強くさし込むやうになつて、左の脇腹のところが非常に痛んだ。『かをる! 氣の毒だが、またこゝを押して呉れ!』かう呼んでそこを強く強く押して貰つた。
 窕子は呉葉に言つた。
『何うも、いつもとは違ふのでね……。あの痛みが何うもわからない……。何かお中のうちに腫れたものでも出來てゐるのではないかと醫者は言うのなれど……』
『それだと困りますねえ』
 呉葉も窕子の心を知つてゐるだけに、ひと事とは思へぬのだつた。
 急に思ひ附いたやうに、
『腫物ならば私はちよつと行つて參じませう。大原野に、それによくきく地藏さまがございますから……。そこにさへお參りすれば、どんな難かしい腫物でも、三日が内に口があいてよくなると申しますから……』
『でも、本當に腫物だか何だかわからないのだけれど……』
『それでも、私、行つて參じませう。わけはありませぬから』
 呉葉はさう言つて、桂川の土手に添つた長い路を遠く遠く歩いて行つた。大原野の春日の社のあるところからはもつと南で、昔、都が一度そこにあつたなどと言はれるところだつた。そこには竹むらの蔭に小さな地藏堂があつて、そこに大勢腫物のために參詣する人だちが來てゐた。
 窕子は此頃はまた大きな壁見たいなものに打つかつたやうな氣がするのだつた。折角いくらか人間のことがわかつて來て、いくらか落附いた氣持になつてゐたのに、それさへ再び夏草のやうに亂れ勝になつた。かの女には母親なしの自分の生活を考へて見ることは出來ないやうな心持に滿たされた。苦しいことがあると言つては、腹立たしいことがあると言つては、わからないことがあると言つては、すぐ母親のもとにかけつけたものであるのに――母親はそれを自分のことのやうにして心配もすれば慰めもして呉れたものであるのに――母親があればこそ今まで死にもせずに生きて來ることが出來たと思はれてゐるのに――あのやさしいにこにこした顏があるために何も彼も慰められて來たのに――もしものことがあつたりしたら? 窕子はそこまで行くと深い憂欝に閉ぢられずにはゐられなかつた。かの女はじつと妻戸のところに立つて竹むらに夕日の影の消えて行くのをたまらなくさびしい心持で見詰めた。
 時にはひとりでに涙が流れて來た。孤獨の涙が。今度は治ることがあつてもいつか一度はわかれて行かなければならない涙が。豫想したことのないひとつの事件がその眼の前に起りつゝあるといふことが。その暁にはその身は何うなるであらうと思はれるやうなことが。それにしてもかの女は一度だつてそのやうなことを想像したことがあるだらうか。母親がゐなくなるなどといふことを考へただらうか。あのやさし莞爾した顏が、この世になくなるなどといふことを思つて見たことすらあつたらうか。窕子は涙ばかりではなく――それ以上にじつと空間の一ところを見詰めるやうな心持になつた。
 何うかして一度は治つて呉れるやうにと祈つた効もなく、次第に母親の病氣のわるくなつて行くのを窕子は何うすることも出來なかつた。此頃では夥しく脇腹が痛んで、その内部に出來てるる腫物が外部から觸つて見てもそれとわかるくらゐになつて行つてゐるのを見た。醫者の罨法も役に立たず、修驗者のやつてゐる祈祷も後には徒らに病人を焦立たせるのみとなつた。窕子は毎日のやうに出かけて行つたが、その間は十町ぐらゐあつて、それは半ばは小野宮の邸の築地に傍ひ半ばは草むらになつてゐるところについて曲つて行つた。かの女は常に深い憂愁に滿たされながら、時には歩き、また時には網代車に乘つて出かけて行つた。草むらには暑い日影に晝顏が咲いてゐたり、阜斯が人の足音につれて草の中に飛んで行つたりした。蟋蟀なども頻りに啼いた。小野宮の築地の壞れの中からは四の君らしい琴の音が頻りにきこえた。
 何うかするといんち打
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