…………』
窕子は末の宮の戀のことを頭に浮べずにはゐられなかつた。あの東國に走つた老尼の戀愛のことも不思議にもそれに引くらべて考へられた。
『それからずつともどつて來た?』
『え……』
道綱は可愛く點頭いて見せた。
『さういふところでは、しやんとしなけれはいけませぬよ。行儀をよくしなければ、でなくつては、殿上がつとまりはしないんだから……』
『大丈夫……』
『それから、一緒にゐる友だちと爭ひごとをしてはなりませぬよ』
『大丈夫……』
かう輕く言つてそして表の方へと出て行くのだつた。
その年は何方かと言へば窕子は幸福だつた。夏になってから宮から消息があつて――この間は道綱どのに逢へてうれしかつた。お身をまのあたり見たやうな氣がした。眉から額のところがよう似てゐる……。また今度逢はせていたゞきませう。禊の時には、棧敷が空いてゐるから來るなら來ては見ぬか。運好ければお目にかゝることが出來るかも知れない……などと書いてあつた。で、禊には母と道綱とを伴れて出かけて行つた。不幸にして宮には逢ふことは出來なかつたけれども、そのめづらしい儀式をまざまざと見ることが出來たのは嬉しかつた。
父母もいつも樂しさうに睦じさうにしてゐた。やはりいろいろな境を經て來たのでなければ人間は何うしても靜かなむつまじい心持になることは出來ないといつかも山の坊のあるじが言つたがそれが今はつきりとかの女にも點頭かれるやうな氣がした。二三年前から比べたら、かの女は何んなにいろいろな瞋恚や嫉妬や不平や悔恨を捨てゝ來たか知れなかつた。それと共に生きてゐるといふことのたうとさが次第に飮み込めて來た。生きてゐさへすればいつかは好くなつて來る。いつかはさうした苦しみを捨て去るやうな時が來る。さういふことが生きてゐるといふことである。殿の遊蕩にしてもやつぱりその通りだ。その時にははつと思つて吐胸をつくが――この身の戀などは一顧にも値ひせずに捨てられて了ひさうに悲觀されるが、じつとして見てゐると、そんなものではなくて、そこにも不滿足と不幸と不運とがいつでも渦を卷いてゐて、いつか春の雪のやうにあとなく消えて了つてゐるのを見た。あの時それを堪へ忍ばなければ自分は何うなつてゐたかわからない。自分で自分の戀を破壞するやうな形になつて行たに相違ない。あとで後悔したつて追ひつかないやうなことになつたに相違ない。これが古の人のいふ耐へ忍ぶといふことか。忍耐が人間には一番肝心だといふことか。しかし耐へ忍ぶといふ心持ともいくらかは違ふやうである。それよりももつと努力の要らない、そのまゝそつとして置く心持――まづ暫くそれをわきにやつて置くといふ心持、むしろさういふ心持に近いやうなのを窕子はこの頃染々と感ずるやうになつた。
母親は何うしてかこの頃丸で違つたやうな人になつた。もとは何方かと言へばいろいろなことを氣にしたり、殿のことについても時には窕子以上やきもきしたり、かをるに對してもわるくこだはるやうな心持を見せたりする人だつたが、父親が歸つて來てからは全く靜かな落附いた愛情に富んだ母親になつて了つた。嫁に對してわるい顏などを見せたことなどもなく、殿のことにしても、『何と言つたつて、お前、立派な人なのだからね……。堅いお方なのだからね。だからお前が始終からかはれてゐるやうなものなのだよ。お前がむきになつて怒つたりするので、一層さういふ氣になるのだよ。好い方なんだからねえ』などと言つて、もう心づかひすることはないといふやうな任せ切つた心持で話した。
かをるもやつぱり窕子の言ふ通りだといふのだつた。此頃では險しい言葉などをかけられたことは一度もないといふのだつた。
『やつぱりひとりでゐたので、さういふ風になつたのかしら?』
『さうかもしれない……』
こんなことを二人は話した。道綱などが行つても、『あこ來たか、よう來た、よう來た!』などといかにも嬉しさうであつた。羊羹などを高つきに載せて出した。
ところが二年目の春の祭の濟むころから、何となく胸がつかえるなどと母親は言ひ出した。その癖その祭見には、棧敷が取つてあつたので、窕子を始めかをるや呉葉などと一緒に出かけて行つたのであつた。そして風が吹いて塵埃の立つ日に御輿の赤牛にひかれながらねるやうにして行列の徐かにやつて來るのを見たのだつた。中宮の出し車の美しさがその時あたりの眼を惹いた。さまざまの色……さまざまの模樣……その中でたしか藤色なのが中宮だつた。忘れもしない、その日の夕方から、母親は何うも胸が變だと言ひ出したのだつた。
しかし窕子は別に深くそれを心配しなかつた。一時のことだと思つた。物でも取りすぎたのだと思つた。丁度そのころ殿が續けて來たので、二三日無沙汰して行って見ると、奧の對屋に几帳して寢てゐて、思ひもかけないほどやつれてゐた。醫
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