した。多賀の府に留つてゐることが出來れば好かつたのだが、それが出來ないので、言ふに言はれない艱難を嘗めた話などを父親はした。しかしそれといふのも小野の宮の機嫌をそこなつたからで、それも奧を探つて見ればやつぱり窕子が兼家の許に行つたことに起因してゐるらしく、小野の宮が失脚してから、やつとその身が浮ぶやうになつたなどと父親は話した。『それにしても結構なことぢや……。殿の世になるのも、もはや程近い。目の前に見えて來た……。これからは、そなたも運がひらけるばかりぢや』こんなことをも言つた。
 それにつけても母親の喜びは何んなであつたらう。八年の長い月日を離れてゐてしかも一刻も心に思はないことはなかつたのであるから、窕子の眼にもこの世の喜びとは思へぬやうな喜びが映つた。母親はたゞわくわくしてゐた。何から話して好いかといふやうにたゞ默つてじつとして顏を見合せてゐたりした。窕子は出かけて行つては、『母者、この頃、何うかしたやうだ……もう昔のやうに物を言はなくなつた……』などと言つた。
 政治上の兼家はまだ正面に出て行つたといふわけではないので、それほど自由がきくわけでもなかつたけれども、長い間虐げられて左遷されてゐた窕子の父親を然るべきところにすゝめるくらゐの力は持つてゐた。兵部省の輔に任命されて、やがて、そつちの方ヘと勤めるやうになつた。
 もう一つ窕子に取つて喜ばしいことがあつた。それは他でもない、道綱が童殿上したことであつた。さすがに兼家も道綱が可愛ゆく、東三條にも、堀川にも子供は大勢ゐないことはなかつたけれども――また童殿上してゐるものもふたりほどあるにはあるのだつたけれども、しかも一番道綱が可愛ゆいらしく、その當座は日ごとそこにやつて來て、いろいろとその世話を燒いた。時には自ら自分の乘る牛車の内に入れて、そして一緒に參内することなどもめづらしくはなかつた。窕子はその始めて童殿上した時の道綱の扮裝のさまをいつまでも忘るゝことが出來なかつた。
 幅のひろい狩衣に小さな冠をして、沓をはいて父親に伴れられて牛車へと入つて行くのを見た時には、母親らしい涙が胸一杯溢れ漲つて來るのをとゞめることが出來なかつた。
 いつかは憎んで憎んでも足りないやうに思つた兼家すら、さういふ風にして道綱を伴れて出て行くのを見ると、何とも言はれない愛情が――肉體でなければ味ふことの出來ない愛情がそこに體に滿ち溢れて來るのを感じた。――何んなに遊蕩に身を持ち崩してゐたにしても、今でもその癖はやまずに、新らしい女が出來たりなどしてゐるのをはつきりと知つてはゐたにしても、それが深くこんがらかつて、何處までが憎だか、何處までが愛だか自分にもわからないやうな氣がした。否、さういふ女が他にあるがために、そのために一層不思議な愛情が漲つて行くのを感じた。口惜しさ、腹立しさ――それすらそこに愛となつて絡み合つてゐるやうな氣がした。
 ある日は道綱が話した。『だつて、へんな美しい人が來て、この身を伴れて行くのだもの……。そしてね、母者、その人が貴い女の人なの……局の人たちがその人のことを大騷ぎしてゐるの……。この身もびつくりしちやつた……。ずんずん奧の方へつれて行つて了ふんだもの……。母者、あの宮知つてゐるのかえ……。いろいろなものを呉れたよ。羊羹だの栗だの高つきにのせて……。それから母者にもよく言うてくれと言はれてぢや。あんな美しいけだかい人この身は見たことはない……。』
『そちは知らぬかのう……あの堀河の家にゐた宮――?』
『知らぬ――』
『さうかのう。知らぢやつたかのう? その宮ぢやらう?』
『さうか――それぢや、母者よく知つてゐるんぢやな……。この身はそれと知らないからびつくりしちやつた。女子のゐるところぢやのう? 澤山々々女子がゐた。そしてこれがあの東三條殿の歌よみの人の子だなんて、皆なしてこの身をおもちやにするのだもの……しまひには睨めてやつた――』
『まア、この子が……』
『だつて、宮はにこにこして何もせられぬのだけども――その女房たちが人を何の彼のと言ふのだもの……』
 窕子の眼には大内裏の藤壺のさまがそれとはつきりと映つて見えるのだつた。女の歌人としてこの身がさうした社會にも認められてゐることが――その子の道綱の口からもさういふことがきかれるといふことが、かの女に一種の愉快を感じさせた。
『宮はそれから何うなされた――』
『宮のゐらるゝところまで伴れて行かれた……。そこでいろんなことをきかれた。……父上のこともきかれた。……母者のこともきかれた。そして母者に孝をつくさなければいけないと言はれた……』
『まア……』
『それから歸る時、また今度來よと言はれた……。母者、あそこはずゐぶんひろいところね。幾曲りいく曲りと曲るんだもの……。わからなくなるくらゐね……?』

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