ると申すのではないのでございますね?』
『さう土地のものは申してをりますのう……』老尼は一つ一つ珠數を數へながら段々話し出すのだつた。『それに、花などもめづらしい花が多うござる。紫の一もと! そら古歌になどもござるのう。それもいろいろに言ふが、綺麗な花も澤山にあるやうなところぢやのう。しかもこの身の居つたところは、武藏野は武藏野でも、ずつと奧の方で、それは山の裾のやうなところでのう。すみだ川といふ川もあるさうぢやが、そこにもよう行つて見ることが出來ざつた……』
『めづらしいことでございますねえ!』
『食ふものなどには別に不自由はせざつたのう。鳥などは雉や山鳥が澤山にゐた。その頃はまだ佛の道に入らざつたものぢやで、罪といふことも知らずに、つれ添ふ人がさういふことが好きぢやつたために、よく狩りに行つてさういふ鳥や獸を捕つて來たものぢや。猪なども澤山に來をつた。冬になると、夜中には狼がようやつて來た。ガサガサツて落葉を踏んでのう。何も食ふものがなくなるぢやろ……。あゝいふ獸は鼻でよく物の臭を嗅いで來るものぢやで、にほひのするものは置いてはならん、味噌汁などことに禁物ぢや。そのにほひがすると、戸を壞してまで入つて來ようとするぢや……。でも馴れぢやのう。さういふものにも馴れると、人間は別に怖うも思はなくなるものぢや。また昨夜狼が來をつたなどと言つて何とも思はぬやうになるものぢや。近所にだつて、それは家はないことはない。やはり同じやうな人だちが住んでゐる。稗だつて、食ひなれれば、馨しうてうまいものぢや……』
いつもはそんな話をしたことさへないのに、今日はすらすらと話し出すのを若い尼もたゞめづらしいことにして、じつとその顏を打眺め眺めた。
『それでも退屈ではござりませぬでしたか?』
『退屈なこともあつたが、人間は何處にゐるも同じぢやのう。退屈もすれば、おもしろいこともある……。それはのう、今は佛の道に入つて、何も彼も懴悔の身ぢやが、あゝいふ昔のくらしも樂しかつたと言へば樂しかつたのう……』その時を思ひ出すといふやうにして老尼は話した。
まさかにその話にまで持つて行くわけには行かなかつたけれども、その周圍のことについて、いろいろと訊いたり話したりした。そこらに住んでゐるものは、高麗から移住して來たものでなければ、昔からずつと百姓として住んでゐる人だちだつた。秩父の方には大きな深い山があつて、その向うに町などがあるなどと聞いたが、そつちには行つたことはなかつた。高麗から移住して來た人達の方が、農事にも巧みに、文化も進んでゐて、もとからゐた百姓には馬鹿にされながらも却つて收穫などを多く貯へてゐるといふことだつた。話の間々には、老尼は念珠を手まさぐりつゝ佛の名を唱へた。
そこで一日あそんで、夕日がいくらか凉しくなつた頃から、窕子だちはその尼寺からもとの坊の方へと戻つて來るのだつた。道綱は鈴蟲や松蟲を澤山捕つて、それを母親に拵へて貰つた紙袋に入れて、喜ばしさうに手から離さずに持つて歩いた。かをると窕子とはこんな話をした。
『年を取ると、あのやうになるものでござるかのう!』
『ほんに、何も彼も忘れて了うものと見える……』窕子は考へながら、『あれでもいろいろと苦勞があつただらうに――その父母のことも考へたらうに――その父母や叔父伯母などが亡くなつてからずつと年月が經つて後にやつともどつて來たのぢやから、ほんにそら水の江の浦島が子と同じぢやのう………』
『ほんに同じぢや』
『不思議なことがあるものだ……。過ぎ去つたあとで考へたのでは、もうその時の心持は本當にはわからなくなつて了つてゐるものぢやで……。夢のやうぢやと言つたがほんにさうぢや』
『それでも、その男のことを忘れてはをらぬらしい。やつぱり佛の御名の間々にはその男のことを思ひ出してゐるやうでござつた……。戀とは不思議なものだといふ氣がした……』
『ほんに、浦島ぢやのう』窕子も深く感ずるやうに言つた。それから比べると、自分の戀などはまだやつとその戸口に入りかけたもののやうに思へた。殿は本當は此身より他にないやうなことを言ふのであるけれど、それが何處まで信じて好いかわからないやうな氣がした。
窕子だちは坊に歸つてから猶ほ十日ほどゐたが、盂蘭盆が近づいて來たので、一度京の家の方へと戻つて來ることにした。山から出て來る小川の岸には、さゝやかなみぞ萩などが水にぬれて咲いてゐるのを目にした。標野に來ると、今まで籠つてゐた山の峽に雲が白く徐かに靡いてゐるのがそれと振返へられた。
三七
それから二年經つた。その間にはいろいろなことがあつた。その中でも窕子に取つて印象の深かつたことは、父親が陸奧から歸つて來たことだつた。父親は八年の間にいたくも老いた。話をするにもわくわくするやうな表情を
前へ
次へ
全54ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング