卿にかたづいてゐらつした方、あの方が一年ほどはよくおたづねになりましたが、昨年おかくれになりましたので、もう何方もお出でになる方がございません。皆な孫、曾孫にあたる方ばかりですから……』
『一體おいくつにおなりでございますか?』
『今年七十五とかになると申してをりました。』
『それではまだそれほどお年を召したと云ふでもございませんね……』

『え、え、まだ、お達者でございますとも。齒などもまだ下の方は半分は殘つてゐらつしやいますから……』
 窕子は深く打たれずにはゐられなかつた。面白い話をきいたといふ以上に大きな人生をそこにまざまざと見せられたやうな氣がした。かの女は遠い東國を頭に浮べた。その身も行つて見たいやうな氣もした。
『まア、ね、面白いお話ね……。よくそれでわからずにゐましたことねえ?』
 傍できいてゐたかをるも心を動かされたといふやうにして言つた。
『何しろ、武藏野と申しても、その普通旅人などの通るところではなしに、ずつとわきに入つたところださうでございますからねえ!』
 若い尼は説明した。
『さういふことが、今でも出來るでせうか。出來たら、こがれ死に死んだり、一緒に死んだりするよりもその方が好うございますねえ……? それで、子供は出來なかつたんでございませうか?』
『ひとりもなかつたさうでございます』
『まアねえ』窕子はまたその遠い昔の巴渦の中にその身を見出すといふやうにして、『それでもよくその男の人が京にとゞまつてゐずに、その美しい人を東國につれて行く氣になつたと思ひますね。誰か東國に知つてゐるものでもあつたのでせうね? さうでなくては、とても知れずに、そこまで行くことは出來ないでせうからね……。それにつけても、京では大變な騷ぎだつたつて言ひますからね。内裏はその話でしんとなつて了ふくらゐだつたさうですから。祖母がその話になるといつも眞劍になつて、その人だちは今でも生きてゐるだらうか。それとももう死んで了つただらうか。何處か深い山の中か何かで首を縊つてでもゐたのを誰も知らずにそのまゝ埋めて了つたのではないだらうかなんてよく言つてゐましたからねえ。祖母だつてその話に深い興味を持つたからこそさういつまでもその話をしたんですね。それにその建禮門につとめてゐた人にも、ちやんとした妻もあり子もあつたんださうですから。その妻が泣いて外を歩いてゐたのを祖母が見たことがあるなんて言つてゐたことがありました。それを考へて見ても、戀といふことは不思議ですね。何ういふわけで、さういふことになつたか結局はわからないんですからね』かう言つた窕子の頭には、この梅雨ころに強いて御門に内裏に伴れて行かれた末の君のことだの、それを思ひ死に死んで行つた式部卿のことだの、ことにあの雨の夜の恐ろしかつた光景などがそれとはつきり浮んで來るのだつた。否、さうしたいろいろな戀愛のシインの中にかの女の戀のやうなものが雜つてゐるのもやつぱり不思議な心持をかの女に誘はずには置かなかつた。窕子はあたりを見廻すやうな心持の益々多くなつて行くのを感じた。またそれほど關係があるのでも何でもないけれども、もしその身とあの坊のあるじの僧と戀にでも落ちて、さういふ風に身をかくすやうな形にでもなつたら、それこそ何んなに世間で騷ぐことだらうなどと窕子は想像した。
 そんな話をしながら甜瓜などを食つたりしてゐる中に、老尼のおつとめもすんで、やがて莞爾しながら皆なのゐる方へと出て來た。別に話をするでもなく、たゞ靜かに珠數をつまさぐるやうにして坐つてるた。窕子は成るたけ見ないやうにしながらも、しかも、それを見ずにはゐられないやうな氣がした。A Great Love とは言へないまでにも、娘の時代から白髮になるまで全く世間から離れて暮した戀愛生活――それだけでも非常に大きなことのやうに窕子には思へた。評判の美人であつたといふ當年の面影も、その端麗な顏の輪廓や、恰好の好い鼻つきや、眉や口元などにそれと指さゝれるのもなつかしかつた。
 かをるも何か聞けるなら聞きたいといふやうにして、しつこくその老尼の顏を眺めた。
 たうとう窕子が訊ねた。
『今、こちらからお伺ひしたんですが、長らく東國にゐらしつたさうでございますねえ?』
 しかも老尼は今は最早それについては、別に多くを考へてはゐないらしかつた。或はそれは遠い夢か何ぞのやうになつてゐるのかも知れなかつた。
『武藏野には逃水といふことがございますさうですね?』
『ひろい野原でございますでのう……。三日も四日もその原を歩かねばならぬやうなところで、逃水などと申して、土地のものはいろいろに申すのでのう。あれはさういふ水があるのではない。霧か何かの加減で、かげろふか何かのやうになつて見えるのだなどと申してゐますで……』
『それでは別に、さういふ名所があ
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