ことをあきらめた。そればかりではない、間もなく六條の大殿がおかくれになり、その北の方も、平生四の君、四の君と可愛がつてゐられただけに、それを苦に、そのあとを追つて行かれた。時がまた經つて行つた。その御門さへ位をお讓りになつて二三年して崩御になつた。世の中も丸で遷り變つた。もはやさうした戀愛の話をするものもなければ記憶するものもなかつた。新しい時代の人達も同じいやうに苦しい戀をし、逢はれぬ苦しさを嘆き、思はぬ相手に添はなければならない涙を流してゐるにはゐるのだけれども、しかも過ぎ去つたことはもはやその心に響いては來なかつた。ところが、窕子にその話をしてきかせた祖母が死んでからまた五六年經つて、かの女が殿の許に來るやうになつた時分、ひよつくりひとつの物語が傳はつた。それは四の君がまだ生きてゐるといふことだつた。それもその一緒にゐる男は、その建禮門につとめてゐた同じ下司で、年はもはや六十に近く、女の方は五十を越してゐて、その時分にも睦まじく暮してゐるといふことだつた。そしてそれが何うしてわかつたかといふと、東國に下つたある侍の下司、その男の父親がその建禮門につとめてゐた下司と朋輩だつたので、よく互に出入りしたので、子供心にもそれを記憶してゐた。ところが、何でも武藏野の奧、それもずうつと秩父の方に寄つたところに用事があつて、そこに行く途中、日が暮れたので、無理に頼んである茅屋に泊めて貰つた。ところが、そこにゐた爺がその子供の時に父親のもとに出入りした下司の男によく似てゐる。非常によく似てゐる。何うも不思議だ……。顏もさうだが、聲がそつくりだ。『太郎は今に大きうなつてえらうなるの? 院の武士になるのう?』などと言つて頭を撫でたりした下司にそのまゝだ。しかしその彼が何うしてもこんなところにゐるとは思へない。他人のそら肖といふこともある。大方それだらう。滅多なことは言ひ出せないなどと思ひ返しても見たが、何うしてもそれに違ひない。それにはその時分子供心にも不思議なものがあると思つて見てゐた耳のところに出來てゐる小さな疣もそのまゝそこにある……。それでかれはたうとうそれを言ひ出した。ところがその爺は、おお、さうぢやつたか、あの時の太郎ぢやつたか? と言つて、ぽろ/\涙を流してその素生を打明けた。そしてそこにゐる婆は、その評判な四の君で、それ以來かれ等は此處に來て一生を送つたといふことだつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。
『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』
『まアねえ』
 さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。
『よくそれでもねえ!』
 窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、
『それでも昔の話などをなさることがございますか?』
『ちつとも……』
 若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』
『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』
『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』
『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』
『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部
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