、四面が全く山で取圍まれたやうになつてゐるのをさもめづらしさうに、あつちへ行つて立つたり此方へ來て立つたりして眺めた。(いつそかういふところに來て靜かに住んでゐたら……)窕子はこんなことを胸に浮べた。
 若い方の尼は、つめたい清水に糖を入れた茶椀などを持つて來て、それをそのめづらしいお客の前に竝べた。
『何にもさし上けるものはございませんけど、この清水だけは、それは冷たうございますから……。室のこほりのやうでございますから』
『おう、つめたい』窕子はぐつとそれを飮み干して、『もう一杯! 今度は糖を入れずに――』
 若い尼はそのまゝそれを持つて向うの方に行つて、山よりのところにもくもくと湧き出してゐる綺麗な清水にその椀を入れて汲んだ。窕子は氣輕に立つてそれを縁のところからのぞくやうにしたが、『そこに湧いてゐるんですね……。まア、何て好いんでせう!』かう言つて、たまらなくなつたといふやうにそこにあつたわら沓をつゝかけてそつちへと行つた。
 若い尼の手から茶椀を取つてそれをまた一口に飮み干した。
『姉者來て見やな……』
 かをるもその聲をきいてそつちへと下りて行つた。二人はやがてそこに立つて、そのもくもくと漲るやうにわき出してゐる清水を眺めた。
『まア綺麗ねえ!』
『山はこれだから好いのねえ! 私にもその椀貸して?』
 かをるも自分で茶椀をその中に入れて二杯も三杯もつゞけて飮んだ。
『坊のあるじもこれだけは羨しいつて、參る度に申してをります!』
 若い尼は傍から言つた。
『さうでせうね。坊にも清水はあるにはあるけれども、こんなに好いのはございませんもの……』
『本當ね』
 かをるも言つた。
『ですから、夏は始終此方に來てゐたら、さぞ好いだらうなどと申してをるのでございますの』若い尼はこんなことを言つたが、そのまゝ厨の方へと行つて、そこからさつきの里の女が持つて來て置いて行つた黄く熟した甜瓜を五つ六つ持つて來てそこに浸けた。
『すぐ冷えますでのう』
 冷えたら、京のめづらしいお客さまにさし上げようといふのであつた。
 老いた尼は晝前の讀經を小聲で始めた。香の烟が靜かに※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]る――をりをり鳴らす鉦が靜かに鳴つた。やつぱり山の中にかくれた優婆塞であるといふ氣が窕子達にもした。
 此方では若い尼と窕子とが歌の話を始め出した。初めに若い尼の方が歌を書いて見せると、今度はそこにあつた檀紙に綺麗な手跡で窕子が昨日詠んだ歌を書いて見せたりした。話は容易に盡きようとはしなかつた。内裏で歌のうまい人達の話などもそこに出た。道綱がやがて松蟲を三疋も四疋も捕つて戻つて來た。つめたくなつた甜瓜の皮も厚く剥かれた。

         三六

『え?』
 びつくりしたやうな調子で窕子は聲を立てた。かの女はそれとも知らずにこの話をそこに持ち出した若い尼の顏をじつと見詰めた。すぐつゞけて、
『それは本當ですか?』
『本當でございますとも……。私などは詳しいことは存じませんけれども、今から五十年も前のことださうでございます。大變なことだつたさうでございます……』
『それではその六條どのの姫君と申すのは、現にそこにゐるその老尼さまだと仰しやるのでございますか?』
『さやうでございます』
 窕子の言葉につれて若い尼の言葉も丁寧に改められて行つた。
『まア――』
 窕子はかう言ふより他爲方がなかつた。かの女は佛間に向うむきに坐つて讀經してゐる老尼の方に目を遣らずにはゐられなかつた。
『まア、本當でございますかねえ? 六條の四の姫君、先々代の御門の女御に上がるばかりになつて身をかくした? ――下司の建禮門につとめてゐるものと身をかくした?』あとの一句は窕子も流石に聲を低くした。
『さやうでございます……。』
『まア、ねえ、思ひもかけぬこと――ほんに思ひもかけぬこと――』かの女の頭には、幼い頃祖母から聞いたその時の騷ぎやら噂やらが今更のやうにそこにはつきり浮び出すのだつた。
 祖母の話では、それは非常な騷ぎであつたといふ。名高い美しい姫で、其當時のあらゆる姫だちの中でも群を拔いてゐたといふ。また御門がその姫の美しいのを知つてゐられたばかりでなく、その女御として内裏に入つて行くのを指折り數へて待つて居られたので、何うすることも出來ないので非常に困つたといふ。否、そればかりではない、その姫は死んだか生きたかその行方がわからない。當時の御門の力で、または六條殿の力で、あらゆることをして搜したけれども、何うしてもわからない……。それで長い長い月日が經つた。世間ではいつかそのことを忘れた。その髮の長い黛の美しい姫のことを忘れた。六條殿でも、かうわからぬのでは、もうこの世に生きてゐるのではあるまい、地の下に穩かに眠つてゐるのであらう。かう思つてそれを搜す
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