ア、あのやうなことを――』
『あの粗朶を賣つて、歸りには洒を買うて來る……それを居爐裏の側で男の子が待つてゐる。さういふ生活もこの身には羨ましい……』
『結局、のんきで好いには好いでせうね!』
『こら、こら! そんなところに行つてはいけません!』ちよつと窕子が眼を離してゐる間に、道綱はずつと向うの方へと行つて崖の上見たいなところで頻りに松蟲か何かを搜してゐるのであつた。
『本當にしやうがないねえ!』
『麿!』
かをるも呼んだ。
『もう、行つて了ひますよ』
そしてかれ等は林の中へと路を取つて行くと、やがてその尼寺の屋根が見え出して來た。
その時、道綱はやつとあとから走つて追ついて來たが左の掌につかんだものをそのまゝそつと少しあけて見せて、
『母者! 母者!これ松蟲ね?』
『どれ?』
窕子は覗いて見て、『まア、この子が? 本當に松蟲だ!』
『松蟲! 松蟲!』
と道綱は左の掌を持上げて、そのあたりを飛廻つた。
『待つておいで! 伯母者がよくして上るから――』かをるはつねに用意して持つてゐる紙を胸のあたりから取出して、それを袋のやうにして、『さ! こゝにお入れ!』と言つて、それをそつちへとやつた。道綱は拳の中から巧みにそれをその紙に入れて、その末をひねるやうにした。
『もうこれで大丈夫ね』
道綱はそれを手にしたまゝうれしさうに先に立つた。かれは猶ほ草むらを搜すことをやめなかつた。
やがてその尼寺の前のところへ來た。
そこにゐた小さな女の童は不思議さうにして林の中を此方へとやつて來る三人づれの客を見てゐたが、そのまゝ奧に入つて行つたと思ふと、今度はそのたしか歌のよめるといふ人らしい二十二三の若い尼が出て來た。
それと知ると、その若い尼の顏が急に赤くなつた。まさかに、今の世にきこえてゐる東三條殿の窕子といふ名高い女の歌人がわざわざこの山の中までやつて來ようとは夢にも思ひがけないことであつたからであつた。かの女はすぐ奧へと入つて行つた。
あたふたと老尼も出て來て、下にも置かぬやうにしてそれを迎へた。
『まア、好うこそ、このやうなところにお出くだされました……。坊のおんあるじからお話は承つて居りましたけれど、わざわざ御出下されやうとはゆめ更存じませぬで……』
『まア……ようこそ』若い方の尼もいかにも喜ばしさうな感激したやうな聲を立てた。
窕子だちの眼には、全く世離れたさびしい庵が映つた。ついそこが竹の縁になつてゐて、その向うに筧から清水のちよろちよろと落ちてゐるのが繪卷の中の一つの光景であるやうに見えた。そしてその向うは少しの場所が畠になつてゐて、もはやかなりに丈が高くなつてゐるもろこしが風にガサガサと動いてゐた。庵の中央には大きな厨子があつて、そこに二尺五寸ほどの釋迦如來の木像が据ゑられてあつた。香爐だの、香皿だの卷物だのが一面にその前の經机の上に置かれてあるのを窕子は見た。
道綱は挨拶がすむかすみもしないのに、逸早くそこを飛び出して、『遠くに行くんではありませんよ』と言ふのをも耳に入れずに、そのまゝ向うの草原の中へと入つて行つた。
『生中ひとつでも松蟲を取つたもんですから……』
『まア、さやうでございますか。松蟲や鈴蟲なら、此處にも澤山をりますほどに、あとでいくらでも取つてさし上げてもよろしうございます……』
かうした山の中の庵室にまでも、かの女と道綱とが、東三條殿で名高くなつてゐるといふことは、一面不思議な心持を窕子に誘つた。都にゐれば、さういふ風に他から取扱はれるといふことは、一種の屈辱を感ずることであつたけれど――ことに殿の女性に對しての振舞が世間に知れわたつてゐるので、一層さういふ氣持を味はずにはゐられないのであつたけれど――そのためその身の女の歌人としての名譽すら全く汚されたやうな心持さへするのであつたけれども、こゝではそれと反對に、殿の威光がさういふ形にまで大きくひろがつてゐるのがそれとわかるので、その爲めかの女の肩身がひろくこそなれ、決して狹くはならないのであつた。(まア、かういふ美しい方!)と言ふやうに誰の眼にも映るのが得意といふまでではないにしても、決して不愉快ではないのであつた。
『それでも、よく徒歩から御出でになられましたな?』
老尼はそこに冷たい清水を持つて來て勸めたりしながら言つた。
『でも、かなりにあるにはありましたね……もう少し近いところかと思うた――春ならばこのくらゐの路は、かへつて徒歩より來る方が樂しみで好いのでござれど……姉者はくたびれた?』
『それほどでもない……。そんなに遠くはありませんもの……。あの丘ひとつ越しただけですもの……』
かをるもあたりがめづらしいといふやうにして言つた。
窕子はそのゐるところが比較的高い位置にありながら、またかなりにひろい平地でありながら
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