言ふことがあるが、お前はそれだ!』
『そんなことはございませんけど……』
『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』
そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。
『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』
『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』
かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。
暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。
不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。
三五
ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。
路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。
道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。
『つまらないなア……本當につまらないなア!』
道綱が言ひつゞけた。
『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』
『だつて、あんなにゐるんだもの』
こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。
『や、くちなは!』
道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。
『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』
道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。
『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』
誰に言ふともなく窕子が言ふと、
『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』
傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。
『伯母者、さつきのくちなはびつくりした?』
『びつくりしたにも何にも……伯母者ふるえ上つた……』
『今度、出たら、麿が生かしては置かない……』
『麿はきついな』
こんなことを言ひながら三人は山の岨のやうなところを通つて行つた。
向うから重さうに粗朶を負うて女がひとり下りて來た。
かをるはそれにきいた。
『尼寺は?』
『尼寺かな……。もうぢきだ……。この林を越すと、もう見えるだ。若い方の尼さん、つい、そこに出てゐたつけ……』
『まだ十町ぐらゐあるかね?』
『そないあるもんか……』
こんなことを言つてすれ違つて行つたが、少し行つて窕子が振返つた時には、その女がその背負つた粗朶をそこに下して、じつと立ちつくしてこつちを見送つてゐのを目にした。
『あゝいふ人にも樂しみといふものはあるんでせうね?』
これはかをるだ。
『それは同じことよ。家にはちやんと立派な男子がひとりゐて、あゝして里に出て粗朶を賣つて來るのを待つてゐるのよ。あなたと同じやうに男子に可愛がられてゐるのよ』
『ま
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