。このやうな母を持つたお前は何といふ不幸な星のもとに生れ出て來たのか)などとその柔かな頬にその身の頬を押しつけて涙を流したことも一度や二度ではなかつた。しかし、次第にその小さな道綱の存在がかの女に深い意味を感じさせるやうになつて來たのであつた。
何と言つても道綱だけがその身のものである。それだけは他のものが何うすることも出來ない。切つても切れない。離れようとしても離れられない。次第にそこにかの女は人生を感じて來た。
窕子は登子が内裏に入つて行くのを見送つて歸つて來て、ひしと道綱を抱き上げて、吃驚して逃げようとするのを無理に押へてきつく抱緊めたり口づけしたりしたことを思ひ起した。『まア、おとなにしてこゝにゐよ……あこだけはこの母のものではないか。何時まで經つても、この身から離れて行かぬのはあこだけぢや……』かう口に出してまで言つて、母の膝から逃れようとする道綱を押へたことを思ひ起した。(まだそれでもこの身にはなぐさめられるものがある……それから思ふと、あの末の君は悲しい)こんなことをつゞけて言つたことを思ひ起した。
『母者、母者……』
などと言つて、道綱は遠くから走つて來て、その小さな體をかの女に投げつけるやうにしたりなどした。
『まア、この子は! 何處に行つてゐたのか。この足は、この手は? 呉葉や、拭くものを持つて來や……』
さうした窕子の聲がともすればその一室の中からきこえて來た。
それに、この頃は窕子はわるく咳などをした。あの時、雨の中に立つてゐたりしてそのための風邪でも引いたのだらうなどと初めは言つてゐたが、何うも思ふやうに治らぬので、忌みの中にあまり出歩いたりしたので物の怪でもついたのではあるまいかといふ氣がして、いつもの僧を呼んで加持などをして貰つたりしたが、何うも本當には治らないので、その僧のすゝむるまゝに山寺にでも行つて見たら何うかといふことになつた。で、晴れ間を見て、京から北の方へ當る山合の寺へと窕子は出かけて行つた。
二八
兄の長能も一緒に出かけた。
それは京からずつと北山に入つて行くやうなところだつた。鞍馬とは谷を二つも三つも隔てゝゐて、入つて行く路も、標野あたりを眞直に山の翠微に向つて進んで行くやうなところだつた。祈祷などで驗のある名高い僧がかの唐の地からやつて來て、その寺に留つてゐるので、それで評判になつて皆ながそこに出かけて行くのだつた。
出て來る前、そのことを兼家の方に言つてやると、返事も呉れないので、いくらか氣になつてまた追かけて文箱を持たせてやつた。返事は來るには來たが、そこにはやさしいことも書いてなく、たゞ行つて來ることについての承認を與へてよこしたばかりだつた。かれの方にもいろいろなことがあるらしく、一族のあらそひにも氣を腐らせて、内裏にも出かけて行かないやうなことが多いらしいやうなことを使のものは匂はせた。窕子はそれをなぐさめたいにも、その周圍にはいろいろな女だちがゐて、素直にそれが實行出來ないことを悲しんだ。何でも此頃では、また南の坊の方へ行き出して、夜は殿の車がおそくまでその角に置かれてあるなどといふ噂を耳にした。
たゞ窕子に取つて喜ばしいことは、武隈の府から多賀の府へ轉任になつて行つて、今年で八年になる父親が來年は久々で京にもどつて來ることが出來るといふ報知を受取つたことだつた。『まア、父さんがもどつてゐらつしやる!』かう言つて家の人たちは皆な喜びの聲を擧げた。中でも長能の妻のかをるは、父親が任所に赴いた後に母だの伯父だのが相談して貰つたものなので、まだ見ぬ父親に對して一種のあくがれを持つてゐるので、一層なつかしさうに見えた。
『父さんがもどつて來ると、また家が賑かになる……。それにしても、父さんは何んなになられたことやら。今年歸るか、來年もどるか。一刻も早うもどらして貰ひたい。かういくら殿に頼んでも、さういふことはこの身にも自由にならぬとばかりで、何うにもならぢやつたが、やつともどつて來らるゝか……。死なぬ中に逢はるゝがうれしい……』その消息を手にした夜には、母親はかう言つておちおち眠ることすら出來ないくらゐに喜んだ。
窕子にしても里の家が急に明るくなつたやうな氣がした。
標野から山に向つて入つて行く路は暑かつた。一方の車には窕子と道綱と呉葉、一方の車には長能とその妻のかをると母親とが乘つて、カタカタとわるい路を搖られながら行つた。ところどころにある大きな樗の木蔭には、この暑い原を越して行く人だちの牛車や絲毛車が澤山に休憩してゐるのを眼にした。
原を越して、これから山にかゝらうとするところには、冷たい清水がちよろちよろとわき出してゐて、そこに近所の百姓の嚊がむしろなどを持ち出して、山で採れた木いちごや、しどめなどをそこに竝べてゐた。皆な
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