そこで車を下りて休むことにした。
 かをるの方が窕子よりは年が二つ下なのだけれども、窕子はそれを『姉者、姉者』と呼んでゐた。
『姉者は肥えてゐるで、何うしても他よりも暑いぢやらうな?』
 こんなことを窕子が言ふと、
『暑いにも、暑いにも……』かう輕くおどけた風にかをるは言つて、その細い筧からちよろちよろと落ちる清水を茶椀に受けて、それを道綱にも飮ませ自分にも飮んだ。
『つめたい?』
 窕子は此方から訊いた。
『口もきるゝやう――』
 窕子も立つてその筧の落ちる傍に行つた。
 急いであとからついて行つた呉葉が茶椀に滿たした水を窕子に出した。
『おゝこれはつめたい!』
 皆ながかはるがはる口に當てて飮んだ。暑い原を通つて來た苦しさがそれでよほど除れたやうにお互にのんびりした氣特になつた。それにそこは已にいくらか高くなつてゐた。京の町がそれと手に取るやうに見えた。
『これでやつと凉しうなつた!』母親もいつもと違つて、父親の歸京の消息を得た喜びがあるので、いかにも心が伸々としたやうに言つた。
 晝飯にはまだ少し早いけれども、これから先きには水のあるところはあつても休む設備の出來てゐるところはないと言ふので、持つて來た行厨をそのまゝそこで開くことにした。重ねた上の方の箱には、煮つけたものなどが入れられてあつて、下には今朝早くから起きて拵へた饅頭などが一杯に入れられてあつた。
『ひとついかゞ……』
 かをるはそれを呉葉にまで持つて行つて取らせた。
『うまく出來ましたね、姉者……』
 窕子は言つた。
『うまいどころではありませんでせうけども……。それでも、お中が減つては爲方がないから――』
『上手に出來てゐますよ』
 窕子は饅頭を一つ手に取つてそれを道綱にやつたりした。
 窕子にはかうした郊外の團欒がたまらなく樂しいやうな氣がした。これを平生の京の生活と比べたなら? 人が人と爭ひ、心が心と爭ひ、片時もその苦しさをやすめることが出來ないやうな生活と比べたなら? あのやうな無理な壓制が行はるゝやうな生活と比べたなら? またその身が不斷にやつてゐるやうな愼恚と嫉妬の生活と比べたなら? 大勢の妃を竝べて、美しい裳を着せて、それに酒の相手をさせたところでそれが何んだらう? また坊に行つて夜もすがら騷いであそび※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたとて、それが何だらう? やつぱりこの人生にもかういふ靜かな樂しさがあるからそれで生きてゐられるのではないか。こんなことを考へながら、窕子はじつとして立つてゐた。
 兄の長能は窕子の多情多恨な性質を知つてゐるので、傍に寄つて來て、
『何うかした?』
『いゝえ……』
『また、何か考へ出したのかと思つて……』
『いゝえ、たゞ、かうしてゐれば好いなアと思つたんです!……。かういふ生活もあるのに、何うして人間はあゝいふ爭ひの生活をつゞけてゐるのかと思つたんです!……。かういふ山の中に住んでゐる人だちは、さばさばとして何んなに好いだらうと思つたんですの!』
『だつて爲方がない……。さういふ生活があるんだから――』
『だから、それを亡くさうといふんぢやないの……。亡くしたいたつて、それは私の力では出來ないことですからねえ。たゞ、かういふ樂しい、自然のまゝの生活もあるのだと思つただけなの……』
 兄の長能は餘りに深く入りすぎて、また氣持でもわるくさせてはと思つてそのまゝ口を噤んで了つた。
『ぢやそろそろ行かうかね……。もうこれからは山で凉しいから』
『さうしませう』
 かをると呉葉とはそこらにあるものを片附けにかゝつた。
 やがて皆なはてんでに自分の車に乘つて、またガタガタと山深く輾らせて行くのだつた。

         二九

『だつて、お前、そんなことを考へたつて爲方がない……』
 母親はつとめて窕子をなだめるやうにして言つた。
『母者の言ふことはそれはよくわかるのよ。何うせ、人間はあきらめ――自分のことでさへ自分で自由にならないのに、何うして他のことまで自分の思ふやうにすることが出來よう。それはよくわかつてゐる。しかし、さうだからと言つて、それを放つたらかして置くといふことは出來るでせうか。何うかしてそれをよくしたいと思ふから、それで苦しむのではないでせうか?』
『苦しむからいけないのぢや。苦しむことはない――』
『でも苦しまずにはゐられないのですもの……。あゝして道綱があそんでゐるのを見ても、すぐ苦しくなつて來るんですもの……』
『それがわるい癖ぢや……。それをやめねば、そちの病氣は治らぬと阿闍梨も言うたぢやないか? 何も思はぬ。何んなこともつらいとは思はぬ。眼の前を通り過ぎる雲ぢやと思うてゐる。でなければ、魔が一しきりついたのぢやと思うて知らぬ顏をしてをる……さうでなければ治らぬと言うたぢやないか
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