して立つてゐるだけだつた。成るべくその距離を近くさせるべく命令されて牛飼どもは頻りに鞭を鳴らしたり、綱を引いたりして努力したけれども、あたりは全く地が膿んで、ともすれば半分以上車の輪がはまり込みさうになるので、やむなくその人達はそこまで歩いて行かなければならなくなつた。
 形ばかりに藁だの俵だの板だのが持つて來て敷かれた。しかも完全な雨具とても用意してないので、衣冠束帶の勅使と喪服を着たやうな登子とが長柄の傘を後からさしかけられただけで、あとは皆なびしよぬれなるのを何うすることも出來なかつた。勅使の副使をしてゐる同じく束帶の大官は、やむなく長い間その降りしきる雨の中に立ちつくしてゐた。
 しかしさうした混雜もたゞ一時あたりに際立つて見えただけで――登子が老侍女に扶けられてそのほつそりとした姿を前の方にある車の内に入れて了ひ、勅使と副使とがそれをはつきりと見ただけで後の車に乘つて了ふと、あたりは車の齒の泥濘の中に深く喰ひ込んだのを牛飼どもが押したり動かしたりする光景だけになつて了つて、それも崩れた中門の方へ近づくにつれて、段々その動いて行き方が早くなつて、たうとうあとにはその大きな轍の縱横につけられた上にザンザン降り頻る雨の佗しく暮れて行くのを見るばかりになつた。
 窕子は何とも言はれないさびしい悲しい心持で、身動きもせずに暫しそこに立つてゐたが、いつまでもさうしてゐられないので、そのまゝ階段の方へと歩いて來た。
『まア、何て悲しいことだらうね』
 そこに行くと、窕子はわれを忘れたやうにべたりとその階段のところに腰を下して了つた。窕子は兩手をこめかみのところに當てゝじつと深く考へ込んだ。暫く經つた。
『でも、此方を御覽になつたね……』
『えゝ……』
 呉葉はかう言つて、『隨分長いこと、此方を見ていらつしやいました……』
『せめてものなぐさめだね……』暫らくだまつて、『この人の世には、かういふ悲しいこともあるのだね!』
『本當でございますね』
 話聲をきゝつけてそこに常葉が下りて來た。
『まア、何方かと存じたら、窕子さまでございましたか……』
『常葉どの……』
 またたまらなく悲しくなつたといふやうにして窕子は顏に手を當てた。
 呉葉は常葉に訊いた。
『今日、勅使が來るといふことがわかつて居りましたの?』
『いゝえ』
『では、だしぬけに……?』
『え、え、だしぬけでございますとも……それはいづれはさういふことになるだらうとは申してをりましたけれども、さう急なこととは存じて居りませんでした……。ですから姫もおどろかれて、一時は突伏したまゝ、お顏も上げられませぬでした……それはそれは、泣くくらゐのことではございません。姫は何んなに悲しうあらせられたことか……しかし、何と申しても勅でございますゆゑ……』
『まア、何と申したら好いのでございませうね』
『でも、平生やさしい上に雄々しいところもある姫のことでございますから、すぐ御決心あそばしまして、※[#「日+向」、第3水準1−85−25]とたゝぬ中に十分御支度をなすつて御出立なさいました……』
『悲しい女子のさだめ!』
 皆はそこに顏を合はせて泣くのだつた。あたりは次第に薄暮の空氣につゝまれて行つた。窕子と呉葉とは、再び古びた藺笠をかぶつて、泥濘の中をとぼとぼと自分の家の方へと行つた。林に添つた路を通る時には、雨だれがばらばらとその笠の上に落ちた。

         二七

 兼家の方のことも心配にはなつたけれども、物忌が明けない中は、そつちの方へもどつて行くことも出來ないので、幼い道綱を相手に――むしろたゞそれにのみたよるやうにして窕子はわびしい雨の幾日かを過した。
(それでもまだこの身にはこのいとしい道綱がある……)窕子はさうした心持が此頃一層深くなつて來ることを感じた。否、そこに人生が微ながらも覗かれて來るやうな氣がした。かの女はその心持の次第に深められて行くのををりをり飜つて考へて見たりなどした。昔は道綱などは可愛いには可愛いにしても――また誰かが來てそれを奪つて行かうとでもすれば極力それを拒いだには相違ないけれども、しかもその問題が直接にかの女につゞいて來てゐるのではないやうな氣がしてゐた。かの女にはそれ以上にもつともつと大きなことが澤山に澤山にあるやうに思はれた。蹂躙された戀。異性に侮辱せられた戀。青春の徒らに過ぎ去つて行く悲しみ。玩弄品のやうに家にのみ閉ぢこめられていつの間にか老いて行かねばならぬ慘めさ。日毎に退屈に過ぎて行かねばならぬ佗しさ。ことに兼家の愛してゐる他の女に對する嫉妬。火は幾度燃えて、またいく度消されて行つたか知れなかつた。そしてさういふ時には、道綱などのことを考へてゐるひまなどはないくらゐだつた。(何うしてお前のやうな不仕合せなものがこの世に生れて來たのか
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