いから……何うせ、なるやうにしかならないのだから……』
『さうですとも………』
『どうせ、女子はかうなるものだから……』
 窕子は言ひたいことが山ほどあるけれども、言へばすぐ涙が出て來さうになるので――つとめてそれを抑へて別れをつげて來ることにした。
 何うにもならないものに對する悲哀――何と言つてもそれは悲しいものであらねばならなかつた。死でなければ別離――そのわかれのつらさがひしと窕子の體に逼つて來た。
 登子も多くを言はなかつた。窕子が立つて來ると、かの女もその妻戸の外まで送つて出て來た。雨は荒れ果てた池の上に殼紋をつくつて降り頻つてゐた。
『それでは……』
窕子は暇を告げた。
『健かで……』
『おん身も……』
 いつまで惜しんでもとても惜しみきれない別れだ! と思つて、窕子は心を強くして向うに行つた。しかも何うしても振返らずにはゐられなくなつて、もう一度振返つた時には、白い顏を大理石像か何ぞのやうにやゝ薄暗い空氣の中に見せて、登子がじつとして此方を見送つて立つてゐるのを眼にした。

         二六

 呉葉が慌たゞしく入つて來た。それに由ると、内裏からの迎へが今來たらしいといふのであつた。つい今そこから歸つて來たばかりなのに……。まだ一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐしか經つてゐないのに……。窕子は慌てゝ古い藺笠をかぶつて呉葉のあとについて行つた。
 雨の降りしきる中に、果たしてそこに内裏から來たらしい雨つゝみをした網代車が二輛――白い黒い斑牛も、笠をかぶつて雨具をしてゐる牛飼の男子もすべて深い泥塗にまみれて、その車臺すらも半ばは泥濘に汚されてゐるのを眼にした。一つの車は勅を受けて迎へに來た代官が乘つて來たらしかつた。
 これでも雨さへ降らなかつたならば、いくら秘密にしておいても、何處からかそれをきゝつけて、あたりの人達がそれを見に少しはやつて來たであらうけれども、いかにしても路が泥濘になつてゐる上に、上からも片時も止む時なく雨が降りしきつてゐるので、そこにはその二輛の車が置かれてあるだけで、誰も人の姿は見えなかつた。窕子にはそれがさびしかつた。
 かれ等は雨の中に立つてゐるわけにも行かず、さうかと言つてまたそこに近く寄つて行くのも出來ないので、對屋の階段からは十間ほど離れてゐる庇の下のところに身を寄せて、降しきる雨を纔かに凌ぎながら、じつとそつちの方に眼を注いでゐるのだつた。
 呉葉はわくわくしながら、
『まア、ねえ……』
『何うしたの?』
『だつて、この降りに……、御氣の毒ですわねえ……』
 で、かれ等は成るたけ高い庇から落ちて來る雨滴に裳をぬらさぬやうに、廊下の下のところに身を寄せて、奧から皆なの出て來るのを待つた。
 窕子の頭には對屋の中の光景――流石に登子も驚いてゐるであらうと思はれるさまや、勅ゆえに拒むことが出來ずに裳を着改へたりしてゐるさまなどがはつきりと映つて見えた。(それにしても誰が勅使になつて來たのだらう? 兼家でないのはわかつてゐるが、誰か身内のものが一人は來てゐるであらうと思ふが、誰だらう? 内裏の侍女と誰が來たらう)しかもこんなことを頭に描いてゐるのもさう大して長い間ではなかつた。ふと窕子は向うの廊下に五六人の人だちの氣勢のするのを耳にしたと思ふと、その階段のところに、兼家の腹ちがひの弟で、式部の副官をしてゐる政兼が勅使の衣冠をつけて、侍者二人に扈從されながら徐かにその姿をあらはして來るのを目にした。はつと心を躍らしてそれを見てゐると、内裏の藤壺に長い間つとめてゐるので名を知られてゐる桂といふ老女が、喪服でもあるかのやうに黒味がゝつた裳をつけて、際立たしく眞白な端麓な顏をいくらか下向加減にしてゐる登子の手を取らぬばかりにして先に立つて階段の方へと歩いて來るのが見えた。
 窕子も呉葉も唾の口にこもるやうな氣持で、じつとして一心に眼をそれに据ゑた。先に下りた衣冠に笏を持つた政兼が廂の下に立つて上を仰いだ時には、その老侍女が一足下りて、そのあとから登子が續くのであつた。徐かに徐かにかれ等は階段を下りた。
 登子はそこに來て初めてその眼を擧げて、縱縞を成して盛に降つてゐる雨とついその近くまで寄せて來てある二輛の網代車とを眺めた。一層白いその顏があたりに際立つて見られた。
 こつちを見て下されば好い。かうしてお見迭りに出てゐるこの身を見て下されば好い……。かう窕子が思つた時にその登子の眼が動いて、たしかにそれが此方を見た。否、見たばかりではなかつた。それと知ると、一種言ふに言はれない感謝の表情をその顏にあらはして、瞬きもせずにじつと窕子の方にその視線を注いだ。
 しかしこの場合、何方からも聲をかけたり別離を惜んだりすることは出來なかつた。たゞじつとさうして雨の夕暮の空氣の中に相對
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