……。』
『そんなことを申してをりますねえ! 世間の人は?』
 呉葉はこんなことを言つて笑つた。此頃でも殿と窕子との間はまださう打解けたやうには見えなかつたけれども、それでもさうしたいろいろな事件から離れたその二つの心が再び近寄つて行くやうになることを呉葉は願はずにはゐられなかつた。かの女はつとめて窕子を慰めるやうにした。

         二一

 呉葉の國のもので、幼い頃から此處に來て仕へてゐた藤といふのが、今度縁談がきまつて、里から母が迎へに來たので、そのまゝ暇を取つて歸つて行くことになつた。
 呉葉は何年にも故郷に歸つたことはなかつたが、むしろ一生その身は此處につとめるつもりでゐたが、母に迎へられて國に歸つて行く藤を見ると、流石にそれを羨まずにはゐられないやうな氣がした。かの女の眼の前には何年にも目にしたことのない川に添つた、雲の白く靡いてゐる故郷の藁屋のさまがはつきりとあらはれて見えた。
 そこでは今時分はもはや麥は刈られて、暑い日影が山ぞひ路の卯の花の白い叢を照してゐるだらう。藁家の屋根のぐしの上には葉の大きい蛇よけの草などが一杯に茂つてゐるだらう。だらだらとそこから川へ下りて行つたところには、葭や眞菰が青々としげつて、その向うに鰻を獲る舟が餌を置くためにあちこちと徐かに動いて行つてゐるだらう。水が葭の根元のところにさゝやかな音を立てゝ紋を成して流れて行つてゐるだらう。夜は眞闇で、あたりに何もないやうに見えるけれども、村の男や娘達は却つてそれを好いことにして、手を組み合はせたり肩を竝べたりしてゐるだらう。靜かな川ぞひの里。螢の里。夏になつてから名高い瓜の出來る里。あの畠から取つて來た熟して半ば赤くなつた瓜は、何んなにうまい漿をかれ等の口に漲らすだらう。それは都と比べては、派手な賑かな樂みはないだらう。くらべ馬の日の棧敷の賑はひ、祭のかへさの賑はひ、あの引出しの車の裾の美事さ、さういふものはそれは田舍にはない。しかし都の人達の内部のわづらはしさ! 悲しさ! つらさ! ほこりの多さ! あのやうに美しく派手につくつて居りながら片時も休む時のない心のみだれ! それを思ふと、田舍がこひしい。水のほとりの里がこひしい。弟にはもはや嫁が出來て、それが髮に赤い布をかけて、弟と一緒に田に畠に鋤や鎌を持つて出かけて行つてゐるさうだが、さういふあたりのさまがなつかしい。父も
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