消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』
呉葉は問うた。
『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』
『まア、さやうでございますか?』
『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』
さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』
『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』
『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』
『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』
『本當でございます』
『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』
『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』
『そんな話だねえ――』
『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』
『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか
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