母も達者ではあるが、もう老いて、かなりに白髮も多くなつたさうだが、その白髮がなつかしい。几帳だの、かさね衣だの、廊下だの、蒔繪の文箱だの、花の枝につけた消息だの、口で言ふべきところを懷紙に書いてそれを厨子の上に置いたりする生活だの――さういふものに曾ては深くあこがれてそしてその野山を見捨てゝはるばる出かけて來たのであるけれども、今では却つてそこに戻つて行く藤母子がたまらなく羨しいのであつた。(やつぱり田舍に生れたものは田舍でくらすが好い。その方が氣安い。苦勞もない。よしまた苦勞があつたにしても、都の人達のやうにさういふ風にわるくこだはらない。その日その日をわびしく見詰め合つて暮すやうなことはない……)こんな風に思ふにつけても、都の生活が、上は大内裏の局達の生活から、下は羅生門あたりに住んでゐる乞食や盜人のさままで歴々とそこに浮んで來るのだつた。
藤はしかし田舍に戻ることを好んではゐなかつた。また田舍の土くれ男を夫に持つことについても餘り進んではゐなかつた。
廊下の暗いところで涙などを流してゐた。
『何を泣いてゐるの……。京などいつまでゐたとてしようがないではないか。それよりも田舍の方が何んなに好いか?』
『でも……』
『でも、お前は京の方が好いと言ふの?』
『だつて折角京のことがわかつてまゐつたのですもの……』
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
藤はそれでも頭を振ることを止めないのであつた。藤は何んな生活でも、田舍の草深い中にくらしてゐるより京の方が好いと言ふのであつた。御門や后の宮の御車を見ることか出來るだけでも好いといふのであつた。かの女は別れて行くことを悲しんだ。
思ひのまゝにならない世の中だといふことを呉葉はつくづく感じた。何處に行つたつて思ひ通りに幸福に滿ち足りて暮してゐる人達はない。そこにも此處にも悶えがある。不滿がある。悲哀がある。御門をはじめとして、后の宮にも、局にゐる人達にも、また大きな邸を構へて前を追うて暮してゐる人達にも、やはり滿ち足らぬ悶えがある。呉葉は藤の心持の中にその身の悲哀が深く雜り合つてゐることを思はずにはゐられなかつた。曾て窕子が『それがお前、この人間の世の中といふもの
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