れども、しかしその一伍十什を母親からかくして了ふことは出來なかつた。
母親も昔氣質の腹を立てずにはゐられないやうに見えた。それが男の兒であるときいた時には、見る見るその顏の色も變つて行つた。
『殿も殿だ……』
かう母親は口癖のやうに言つた。
一七
七月になつてからであつた。ある日、使のものが古い衣と新しいのと一領づゝ物に包んで、急いでそれを仕立直すやうにとて持つて來た。
まさかことはるわけには行かないので、呉葉はそれを受取るには受取つたけれども、窕子に見せたら、何と言ふだらう。そのやうなけがらはしいものは手に觸れるのもいやだといふだらう。さういふことをする人は他にあるだらうといふだらう。否、感情に強い窕子はそれを見たら、赫となつて、それをピリピリ破つて捨てゝ了ふかも知れない。呉葉は間に立つて困つてゐると、ちやう度そこに母親が來た。
『まア、殿は少しも來もせずに、何といふ――』
母親も呆れた。
『何ういたしませうか?』
『さア、何うしたら――』
『兎に角一度お目にかけた方が宜しいでせうか』
『さうぢやなう、見せた方が好いぢやらう……。しかしあんまり好い氣ぢや』流石の母親もいつものやうに殿のため殿のためとばかりは言つてゐなかつた。
窕子はしかしそれを見ても、たゞそれをひつくり返して、その古い方の衣裳を曾てその身が眞心こめて縫つた時のことなどを思ひ出して、今の身の悲しさをそこに深く深く感じただけであつた。別にそれを何うしようとも言はなかつた。かの女の戀もその衣裳のやうに古びた。かの女はその汚れた衣をひろげて、その肩のところの縫目などを一つ一つ仔細に調べてゐたが、急にたまらなくなつたといふやうにはらはらと涙をその衣の上に落した。
(この縫目はこのやうにしつかりとしてゐるのに……)さう思ふと、かの女はたまらなくなつたのである。
『何うしたのだぞえ?』
母親はびつくりしたやうに窕子の方を見た。
涙は益々繁く霰でもあるかのやうにその衣の上に落ちた。
『さア、此方におよこし……。だから、そちに見せて好いかわるいかと呉葉も心配して言うてゐたのぢやけれど……。なう、窕子、そのやうに泣いたとて、何うにもなるのでもない……。さア、その衣裳を……』母親は窕子の手からその涙に霑された衣裳を強ゐて取つた。そこに呉葉も入つて來た。そして引被ぐばかりにして泣入つ
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