言葉は窕子の周圍にゐる人達の中にも起つた。窕子はしかし默々として暮した。それについては何も言はなかつた。呉葉が何か言ひかけるのにすら不機嫌な表情をした。
 それでもその出來事の一伍十什については、誰よりもその身が一番詳しく知らなければならないのであつた。從つてその問題に觸れられることは身を切らるゝよりも痛さを感ずるけれども、また此上もなくこの身の誇りを傷つけらるゝやうにも感じられるけれども、しかしそれから耳を塞いで、何うともなれ! と言ふやうに平氣にすましてゐるわけには行かなかつた。否、むしろ此方から進んで、さういふ敵と戰ふばかりか、自分のためにも、またこの幼いもののためにも、飽までも男の心を此方へ取戻して來なければならなかつた。窕子は徒らに嘆いたり女々しく悔んだりばかりしてはゐられないやうな氣がした。
 母親もあまり世間の噂が高いので、心配になつたと見えて、それとなしに、そのことを言ひに來たのではないといふ風をして、そつとそこにその顏を見せた。その時、兼家からの使のものが文箱をとゞけて來た。
 箱をあけて、文をひろげて見ると、久しく行かなかつたのは、まことにすまなかつた。しかし、わるう思つては呉るゝな。此方にも今までは知らせずにしてあつたが、少し手放されぬ厄介なことがあつて、それでかういふ風に無沙汰になつた。それもやつと昨日すんだ。しかし身も穢れて居るので、當分は宅に籠もつてゐるより他に爲方がない。非常にあさましう、つめたく思ふかも知れぬが、そなたのことは忘れたのではないからなどといつもよりも細々しくやさしく筆を走らせてゐるのを窕子は見た。使のものもいつもの下衆とは違つて、自分の下につかつてゐる史生見たいなものだつた。で、それとなく呉葉にきかせた。
 やがて呉葉はもどつて來たが、窕子の傍に寄添つて來た。
『え?』
 窕子は耳を寄せた。
『さうなの? 男の子なの? ふむ……』かう言つたきりだつた。窕子の顏は急に赤くなつた。
 呉葉にはその窕子の心の動搖がよくわかつた。しかし何うすることも出來なかつた。二人はそのまゝにだまつた。
 暫くしてから、
『おかへしは?』
 かう呉葉が訊くと、
『ないと言つてお呉れ……』
 かう言つたまゝ窕子は向うむきになつて了つた。
 そこに母規も近寄つて來た。
『何うかしましたか?』
『いゝえ、別に……』つとめてその心持を押へようとしたけ
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