だけにそれをひどく心配して、殿の足の此頃間遠に編まれた簾のやうになつたのは、その幼い兒をそのまゝそこに置くためではあるまいか。子を持てば女子の姿はあさましくなると言はれて、好色の殿達はそれをひとつの邪魔者のやうに、また子の愛に執着してそれから離れて來られない女子はもはや色戀の對照ではないといふ風に思はれてゐるのに、それを平氣で對屋で養つてゐるので、それで殿は來られなくなつたのではあるまいか。今からでも遲いことはない。いつそ世間並に北山へやるやうにしては――? かう母親は絶えてそれを氣にして言ふのであつたけれども、しかも窕子はそれに耳を留めようとはしなかつた。そのやうな薄い情のために、この大切な珠玉を失くして何うなるものぞ! そのやうなことは別にしてそなたを思うて慈しんでくれるのでなうては、父親と言つても、それは單に名ばかりではないか。何うして! 何うして! この身の姿がいかにあさましうならうとも、この身がそのため何のやうに痩せてみにくくならうとも、この身は單なる男の子のもてあそびものでない上は、この子を手放すことではない。窕子は強く強くその可愛い子を抱きしめた。
呉葉もそれには同情せずにはゐられなかつた。何ぞと言つては、道綱を伴れてはその女君のゐる几帳の方へと行つた。
『おゝ、よう參つた! あこは好い子になつたのう!』
かう言つて窕子はこつちへとそれを引寄せた。
『あこは本當にうつくしう――』引寄せてたまらなくなつたと言ふやうに、その身の苦しみやら男に對する嫉妬やら體の平均しない感情やらに堪へられなくなつたといふやうに、その赤い滑かな小さな頬にあつい口をぴたりと當てた。思はず涙が底から溢れ漲つて來た。
その頬の吸ひざまがいつもとは違つて強く烈しかつたので、小さき道綱は急に聲を立てゝ泣き出した。
『お、よし、よし、母があまりつよう吸うた! 許して呉れ! 許して呉れ、さうつよう吸うたつもりではなかつたのに! お、よし、よし』
窕子は慌てゝ引起して、それを一生懸命になだめた。
『よし、よし、本當に、この母がわるかつたのう、わびた、わびた、これこの通りにわびた!』
泣き出した道綱はしかも容易に泣き止まうとはしなかつた。
呉葉が抱き寄せて、
『何ともなつてゐはせぬのでございますのに……。おゝ、母者が吸うた。わるかつた。わるかつた。母者のとこに伴れて來ずばよかつた…
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