、根がついてゐながら何處についてゐるのやらわからず、またいつ根が絶たれて了ふのやらわからず、縋るべき人には他にも澤山にさういふ人達がゐて、口では眞面目なことを言つてこの身を慰めて呉れるけれども、門外一歩を出れば、何處に何ういふ美しい人がゐて、かの人の心を忽ちに蕩かせて了ふやらわからず、それを思ふと、その身ばかりか、生れて來る兒もやはり不仕合せであることを思はずにはゐられなかつた。かの女は何ぞと言つてはよく眼の縁を赤くしてゐた。
 それに、つはりが人一倍強くかの女を襲つた。手水盥のところに行つて物をもどした。また物のにほひがわるく鼻につくと言つては厨の人達を驚かした。沈丁花の咲く時分から、平生好きであつたそのにほひが反對におびたゞしく嫌ひになつて、『呉葉、この花のにほひは昔からこんなにいやなかをりであつたかしら? あの廉いわるい香にそのまゝではないか』などと言つた。
 從つて身じまひなどもおろそかになつて、殿の來た時にもわるく髮を取亂してゐたりなどした。それでも殿には別にそれが氣にもならないらしかつた。否、むしろさうした取揃はない美しい女子の惱みは、海棠の雨に逢ひでもしたやうにかへつてその心を惹くらしく、またその體の中にその戀心のかたまりの呼吸つきつゝあるのを思ふとたまらなくいとしさがまさつてでも來るらしく、ひたしめに窕子をしめたりなどすることもあつた。
『男子といふものは、何うしてさう我儘で、薄情で、他のことなど何とも思はないのでせうね?』
 窕子はある時じつと兼家の顏を見つめるやうにして言つた。
『何うしてそんなことを言ふのだえ?』驚いたやうに兼家は言つた。
『私達の心は男子とは違ひますね……。もつと眞面目で、そして清淨ですね。何んなに戀しくつたつて、それを押へられないといふやうなことはありませんからね。……』窕子は深く思ひ沈むやうに、『でも女といふものは、さういふ風に生れる時から出來てゐるのかも知れません。綺麗な美しいことばかり考へてゐるのですから……。男女の仲にしても、心だけで十分に戀が出來るやうに出來てゐるのかも知れませんから……』かう言ひかけてたまらなく悲しくなつたといふやうに、衣の袖をかつぐばかりにして泣き伏した。
『何うしたのだ!』
 兼家はむしろあつけに取られたといふやうにしてその傍に身を寄せた。
 窕子の涙は容易にとゞまらうともしなかつた。たしかに
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