。曉近く厠に出て行つた時には、月が明るく竹むらを照して、手水盤の水が銀の匝器のやうに厚く氷つてゐた。
そのあくる日であつただけに、窕子が午前に莞爾しなから歸つて來たのがかれはことに嬉しかつたのであつた。
『教へて上げませうか?』
『教へて呉れ!』
『やつぱりあそこよ。洞院の辻よ。あそこで大勢集つて詩の會をしたのよ。』兼家の顏のわるくむづかしげになつて來るのを可笑しげに見やつてゐたと思ふと、急に噴き出して、『本當はうそ! 稻荷に行つたのですよ。そしてあそこの禰宜の伯父の家に母と泊つたのですよ』
『本當か?』
『本當ですとも……。それだましてやつた! あの顏は! 呉葉も見よ?』窕子は聲を立てゝ笑つた。身を崩さぬばかりにして呉葉も笑つた。
『人を馬鹿にしてゐる!』
『だつて……』女達は餘程可笑しかつたもののやうに猶も止めずに笑ひ立てた。
九
さうした笑ひやら悲しみやら戀ひしさやらもだえやらの中にも、いつか新しい生はそのさゝやかな呼吸をその美しい母親の體の中で息つき始めた。と、母親の蛾のやうな黛にはいつか深い惱みが添ひ、人知れず几帳のかげでため息が出で、當然味はなければならないこととは言ひながら、その身にもたうとうさうした女子の運命が來たといふやうなことがたまらなくかの女を感情的にした。かの女は春から夏になつて行く間の期間をその靜かな一間で憂鬱に暮した。曇つた日のもだえ、雨の日の悲しみ、おぼろ月夜の花の下のうれひ、ことに、何うしてか山吹の花の黄色いのが深く身に染みて、縁に近くそれの花びらの白くなつて散つて行くのを見ると、たまらなく悲しい氣がした。何うしてかういふことがあのやうに母親や兄達を喜ばせたのだらう。さういふ人達は身がはつきりときまつたと言つて喜ぶのだけれども、何うしてこれがそのやうに目出度いだらう。この身の若い春は忽ち過ぎて行つて了ふではないか。それも、公に脊と呼び妻と呼ばるゝ身ならば――お互にそれを認めるばかりではなく世間の人達にもそれと認められて、互に縋つたり縋られたり、心が十のものならば互にその半をしつかりと握り持つて、見かはす眼にも、取り合ふ手にも、竝んで行く姿にも、朝夕の起居ふるまひにも、片時もさうした心の添はずにゐないことのない身ならば――それならば、この生るゝ兒も仕合せに、目出度いと祝はれても好いけれども、その身は浮萍のやうに
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