拜した。
『有難や……』
 さうした聲は益々盛になるばかりであつた。
 深く經に讀み耽れば耽るほどその聲の調子には一層眞面目な物狂ほしさが加はつて、僧ばかりではなく、その御堂の空氣の内にもこの世ではないやうな何物にか憑かれたやうな重苦しさと眞面目さとがあたりに滿ちた。
 一しきりの讀經が濟んで、親しくしてゐる僧の房へともどつて來た時には、窕子はほつとしてため息をつくほどだつた。かの女は誰か同じ參籠者が持つて來て壁に頼りつけた畫障などをあちこちと見て廻つた。その室からは深い谷が覗かれて、下では谷が微かに鳴つてゐる。冬の山はさびしく、樹の枝もあらはに、若い僧の話では、鹿がついそこの山まで出て來て、その鳴く聲がいつも笛のやうにきこえるなどと話した。
『かういふところにゐたら、身の苦しみもあるまい……』
 こんなことを思はず窕子が言ふと、若い僧は笑つて、
『この身はまた都にゐたら、何んなに好いかと思ひます……。それはこの二三日は賑かですけれども……誰もゐない時は、冬は……それは山はさびしうございますでな……。あなた方は都にゐられて羨しい』
 かう言つて笑つた。それは眉の美しい、可愛い、色の白い、莞爾しながら絶えず無邪氣に話すやうな若僧であつた。母子の間には先きの帝の内親王がさうした若い僧の佛に仕へてゐるのに感激して、何うかしてその身もさういふ淨い身になりたいと言つて、帝にも誰にも告げずに單身で大比叡にのぼつて髮を剃られた話などが出た。そして、『あゝいふ若い可愛い僧がゐるのだから、さう思はれたのも無理はない』などと母親は言つた。窕子はそれは母親には言はなかつたけれども、その身にしても、もしさういふ淨い身になることの出來る身だつたら、それこそ何んなに好いだらう、何んなにすがすがしくつて好いだらうなどと思つた。
 夜の御堂に出かけて行つて、そこで同じやうな讀經を一ときほど聽聞したが、あまりに夜の山が寒いので、房へ引返して寢るつもりで、そこを出た時には、雪がもう盛に降り出して、一緒に案内して呉れた僧の持つた松明に小さい大きい雪片が黒く落ちては消え落ちては消えた。
『えらい雪になりました……』
『本當に……』
『これは困つたのう? これでは、あすは何うなるやら? 雪に降られてはもどれぬかも知れぬ』
 これは窕子のあとから出て來た母親だつた。
『これはあすは大雪だ』
 松明を先へ翳し翳
前へ 次へ
全107ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング