し、若い僧は足場のわるい路を先に立つた。雨具の支度はして來なかつたので、房まで行く間はいくらもないのであつたけれども、それでも窕子の髮も衣も白くなつた。房の扉のところに來て窕子はそれを母親に拂つて貰つた。
 果して明くる朝は大雪だつた。山も谷も埋むばかりに雪は降り頻つた。樹の枝はたわわに、溪の水の音も微に微に谷の底に鳴つてゐるばかりだつた。戸をあけた縁の中まで雪はふり込んで來た。
『まア、大事ぢや』
 母親は困つたといふやうにしてじつとそこに立盡した。
『まア』
 窕子もかう聲を立てた。
 しかし見たいと思つたとて見られぬ山の雪ではないか。深い山が既にこの世のもだえを、くるしみを、悲しみを隔てゝ來てゐるのに、更にこの大雪がそれを遠く隔てゝ了つたのは、窕子に取つて一層嬉しいやうな氣がした。かの女は始めて思ひのまゝにならない世間以上に更に思ひのまゝにならないもののあることを感じた。(何うにもならない、何うにもならない! いくら思つたつて、いくらもだえたつて何うにもならない、人間は、人間は小さな、小さな身なのだ……)窕子はその身の哀れさを――遠くに行つた父親を慕つて何うにもならず、微かに昔の戀心をたづねても何うにもならないその身のあはれさをつくづくと身に染みて感じた。かの女はその心もその苦しみもそのもだえもその悲しみも皆なこの大雪の中に埋めつくされて了つたやうな氣がした。
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氷るらん
横川の水に
降る雪も
わかごと消えて
物は思はし
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 かの女の胸に簇り上るやうにしてかうした歌が出て來た。雪は降り頻つた。

         八

『だつて二日も三日も待つても、あなたはお出なさらなかつたぢやありませんか』窕子の顏には男に對する勝利の色が歴々と上つて見られた。
『それで何處に行つたのだえ?』
『何處でせうかしら? 屹度、屹度、あなたなどの御存じない好いところでせう。』
 いつもに似合ず女のわるくはしやいでゐるのを不思議にして、兼家は何か言はうとしたが、よして、そのまゝじつと窕子の顏を見詰めた。
『…………?』
『だつて、ちやんと書いて置いたでせう。いくら鶯が好い聲で歌はうと思つて待つてゐたつて、それを聞いてくれる人が來なければ、何處か他に行つて、それをきいて貰ふより他に爲方がないぢやありませんか……』
『それはわかつてゐるよ、
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