腰を屈めて禮拜すると、『有難や……有難や……』といふ聲がそこからも此處からも起つた。
 その大勢の參籠者の右の角のところに、小さな念珠を右の手にかけて、その白い顏を半群集の中に際立たせながら、じつと本尊の方を見てゐるのは、それはまがふべくもない窕子であつた。その傍にはもはやかなりに年を取つた髮の白い小づくりなやさしさうな母親が竝んで坐を取つてゐた。『有難や……』の聲のあちこちに起る時には、母も娘も共に念珠を繰つて禮拜した。
 窕子ははるばる山を越してやつて來た効があるやうな氣がした。それは都の巷のそここゝに有難い御堂がないではない。かの女の苦しい悲しい悶えを托するに足るやうな本尊もないではない。しかしそこでは手を合はせ、珠數をつまぐつてゐる中こそ清淨な心になつてゐられるけれども、そこを、御堂を外に一歩でも出て了へば、忽ち煩惱が身に纏つて來るばかりではなく、眼にはさまざまの悲しいあはれな世のさま人のさま、心をときめかすやうな美しい色彩までがまざまざと映り、耳にはまたさまざまの誘惑やらまよはしが片時もその力を振はずにはゐないのであつた。それに比べたらこの御堂の有難さは! この御堂の壯嚴さは! またこの本尊の尊さは! 實際窕子には昔の佛の力が今にもまざまざと存在して、その功徳をはつきりとそこにひろげてゐるかのやうに見えた。かの女はとてもそなたには行かれまいといふのを強ゐて頼んでやつて來たことを繰返した。丁度その時、殿との間に深い爭ひが起つてゐて――それもいつものとは違つて、窕子が昔親しくした大學のひとりの書生の許から手紙がやつて來て、むかしの心に火がつくまでには到らなかつたけれども此方からかへしの歌などを贈つたことを殿に知られて、『何故それがわるいのです……。何も事があつたのではない。その歌をかへしたのがわるいと言はるゝが、何故それがわるいのです……。男は何のやうなことをしても好く、女子はそれほどのことをしてもわるいと言はるゝのか?』などと言ひ合つたばかりではなく、父親に遠く別れた悲しさが添つたりして、それで暫しはこの苦しさやら悲しみやら悶えやらを忘れたいと思つてそして無理に母親について來たことをくり返した。それでも殿のことが忘れられるのではなかつた。途中では心強くかうして家を明けて出て來たことを悔ゐたりなどしたことをくり返した。
 僧はまた一齊に法衣の袖をひるがへして禮
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